水が合わない

理霊・Fletcher

水が合わない

 21時の高松駅には案外人がいるものだ。既に駅ビルはシャッターを下ろし、空いているのはコンビニだけ。それでもコンコースには大荷物を抱えた人々が待合のベンチを占領している。かくいう私もその中の一人だ。現在高松駅にいる人間の殆どが目的を同じにしているのだろう。21時26分発サンライズ瀬戸。私の目的は帰省である。


 夜のターミナル駅の雰囲気は何処か現実感が無い。東京とは違い人流がまばらな所為か、都市の生命力が感じられなかった。駅舎に明かりが灯っていても、まだ終電の時間でなくとも高松駅はすっかり寝入っている様に見えた。天井まで吹き抜けたコンコースは口を開けてうたた寝をしながら業務をこなしている。反面、私の目は冴えていた。


 21時12分、私は手持ちの文庫本を読み終えてしまった。まだサンライズ瀬戸はホームに入っていないようだ。完全に手持ち無沙汰になってしまった。必要な物はとっくに買い揃えている。私は初めての体験に対する高揚した現実感というものを持てずにいた。そもそも現在高松に住んでいるという事実すら現実感が未だに持てずにいた。高松に越してきて半年以上経つが、未だにこの街に馴染めたという実感が無い。全くのよそ者のまま生活を続けてきた。私と高松という町の間には一枚だけのガーゼ並みに僅かな障壁があり、それを境に別の空気が存在している様な感覚がずっとあった。私はそのガーゼを取っ払う手段を未だに見出せずにいた。私は異邦人のまま高松にやってきて、異邦人のまま帰省しようとしていた。


 21時15分、そろそろホームに向かう事にした。一つしかない改札から見て一番右、9番ホームがサンライズ瀬戸の発着ホームだ。まだ列車は来ていない。ホームには首から一眼レフを下げた若年から中年の男性達が点々と立っていた。ホーム越しに見える真っ暗な高松の街はすっかり日常の活動を終えていた。誰もが寝静まっている間に私は高松と東京を移動する、それも寝ながらだ。確かに夜の間でも人流と物流が生じている事は知っている。だが、実際に自分が動くとなると、途端に夜のロジスティクスに対する解像度が増す気がした。最早現代社会は昼も夜も動き続けていくしかないのだ。夜遊びをしない私にとって、それは全く未知の世界だった。クリーム色の上に赤いラインが入った車体が9番ホームに入って来る。あちらこちらからシャッター音が聞こえてきた。だがイヤホンから流れて来るピンク・フロイドのお陰で気になる事は無かった。


 サンライズ瀬戸で一番安いプランは『ノビノビ座席』という名のカプセルホテルだ。床にクッション性は無く、用意された毛布は敷いて使うには薄い気がする。だから私は予めキャンプマットと寝袋を用意していた。私は固い床の感触に、この買い物が正解であったことを確信した。私は二冊目の文庫本を取り出す。時折窓の外を眺めてみたりもした。住宅街は真っ暗で、街中はぼんやり明るい。東京の様にそこかしこで店やオフィスが動いているのではなく、文明の代謝機能を絶えさせない静かな明かりだった。いつもはがんがん煙を吐く坂出の工業地帯もその安全灯は間接照明に見えた。坂出を出て、瀬戸大橋を渡る。瀬戸内海は真っ暗で何も見えない。いつ児島に入ったのかもわからないくらいだ。


 初めての寝台特急という慣れない環境、かつ生来の寝付きの悪さ故に私は眠れずにいた。がたん、がたんという規則的な振動は催眠効果など無かった。横になり、電気を消し、アイマスクを付けても一向に私の意識は冴え渡ったままだった。寝心地を良くするためのキャンプマットも寝袋もクッション枕も何ら貢献してはくれなかった。こうなったらもう諦めて起きていた方が良いかもしれない。私は寝袋から這い出ると、貴重品やらが詰まったウエストポーチと麦茶のペットボトルだけを持ってラウンジへと向かった。


 ラウンジにいたのは中年男性が一人だけだった。私は彼とは反対側の座席に腰を下ろした。大きく息を吐いてから麦茶を口に含む。窓の外は真っ暗で、まともに景色も見えない。木々やら建物やらの影が夜の闇の中で僅かに存在を主張している。確か大阪は既に通ったはずだ。腕時計に目を落とす。時刻は1時を回った所だ。私はウエストポーチから文庫本を取り出すが、どうにも本を読む気にはなれなかった。表紙を開いては、閉じ、開いては、閉じ。読み進める事無く表紙を弄びながら、ぼんやりと窓の外の墨絵を無心で眺めていた。


 ドアが開く音がする。誰か入って来たのか、それとも出たのか。私はそれに意識を割くことは無かった。


「隣、よろしいかしら」


 不意に声を掛けられたので、私の背中がびくん、と跳ね上がった。声を掛けてきたのは二十歳前後の女性だった。一目見て美人と分かる、目鼻立ちがはっきりした顔をしていた。髪と肌は瑞々しく艶やかで、健康的だと判るものだった。だが彼女が振りまく香りは何処か水草に似て青臭かった。


「え、ええ、どうぞ」


 私は思わず、肯いてしまった。所在無く辺りを見渡すと、先客の男性はいなくなっていた。彼女は何でまた態々自分の隣に来たのだろうか。サンライズ瀬戸のラウンジは八席、ここには私しかいなかったというのに。


「貴方、出身はどちらかしら。大宮、それとも浦和かしら」


 女性の問いに私の神経はぴんと引き延ばされた。彼女の問いかけは明らかに私が埼玉県南部の出身であると見当をつけている。


「何故、大宮浦和の辺りだと思ったのです?」


「貴方から馴染み深い匂いがしたのよ。故郷を離れて暮らそうとも落ちない染み着いた見沼の水の匂いが」


 見沼、それはかつて大宮から浦和にわたって存在した沼地だ。吉宗公の時代に干拓されて以降、残っているのは田んぼと二本の用水路だけだ。


「見沼、というのは当たっていますね。川口ですけど」


 見沼の一部は川口市にもかかっていて、私の実家近くには見沼の代用水路が流れている。

「染み着いた土地と水の匂いはそう簡単に落ちないものよ。そして長く過ごした土地と水は身体に一番馴染むの。どれだけ姿形を変えたとしてもね」


「それはまあ、そうかもしれませんね」


 私は隣に座る彼女の方を向いた。話しかけてくれているというのに目も向けないのは失礼ではないかと思ったからだ。彼女の目を見た時私は、溺死した、と錯覚した。彼女は柔和な笑みを浮かべていた。だというのになぜ彼女の目を見た途端、悪寒を感じ、息が詰まるのだろう。何か一歩、間違えてしまったら私は本当に死んでしまうのではないか。


「私もあのあたりの出身でね。色々あって引っ越す事になったの。昔の知り合いを頼って千葉の、印旛沼の方に引っ越したのだけれど、結局戻ってきちゃった」

「それはまた、どうして」


「色々と合わなかったのよ。当時は、ええとルームシェアっていうのかしら。印旛沼の友達とルームシェアしていたのだけれど、互いの生活リズムが合わない事が多くてね。それに、どうも水が合わなくて」


「水が、ですか」


「ええ、水が合わなくて体調を崩しちゃって。それで戻って来たの」


「解る気がします。私も、地元以外では生水が飲めないので」


 現に、私は高松に越してすぐ、胃腸に変調をきたしたことがある。当初は環境が変わった事によるストレスだろうと考えていた。だが一向に良くならないので、麦茶を作る時に汲んでいた水道水から塩素を抜くようになると、すぐに胃腸は安定するようになった。それ以降、私は自分の身体がどうにも環境変化に弱いという事を思い知らされ、一層気を配る羽目になっている。


「そうでしょう、貴方も私と同じ見沼で生まれずっとそこにいた身ですもの。余所の水は身体が受け付けないの。水には土地毎の味が合って、長くそこにいればいる程身体がその味に適応してしまうの」


「身体が、見沼の水以外を受け付けない、と」


「私も、貴方もよ。その土地の水を難なく飲める様になるという事は、その土地に馴染んだという事。その土地の人間になったという事よ。貴方、新しい環境に慣れる事が苦手でしょう」


 私の心臓が跳ね上がった。彼女は何処まで私の事を見透かしているというのか。彼女の言う通り、私は新しい環境や集団に慣れるのが相当苦手だ。いつも慣れるのに最低半年は要する。だというのに、私は彼女にここまで明け透けに話せる。私は恐怖と同時に安心感を覚えていた。互いに同じ水を飲んで生きてきた者同士だからだろうか。その水が彼女に親近感を抱かせるのだろうか。互いに同じ土地の水で出来ているからなのだろうか。いつもの私なら有り得ない事だ。初対面の人間に、ここまで個人的な話をする事など無い。


「貴方も私も結局見沼から離れることは出来ないの。たまに、今みたいに旅行するくらいなら問題ないけど、年単位で離れるとどうしてもおかしなところが出てきてしまう物なの。私もそう、結局印旛沼から見沼に戻ってきちゃった。住まいは狭くなったけど、日毎夜毎にねぐらを変える楽しみが出来たわ。それに、人の営みを間近で眺めるのもいいものよ。街は大きくなるし、建屋は広く高くなるし、車は馬よりも早くなるしたくさん物を運べるようになる。見ていて飽きないわね」


「貴女は……」


 彼女は黙って、と言わんばかりに私の唇を人差し指で塞いだ。


「でも、うどんは武蔵野よりも讃岐の方が美味しいのよね」


 彼女はおもむろに席を立つと、さっとラウンジから出て行ってしまった。彼女の髪がふわりと私の鼻腔をくすぐる。彼女の髪は沼地の水草の様な懐かしい青臭さを振りまいた。不思議と不快な臭いでは無かった。暫く私は呆然としていた。正直思考が働いていなかった。ふと我に返って彼女の座席に目を遣った。そこには手のひらほどの大きさの鱗が置いてあった。鱗は彼女の髪と同じ、懐かしい青臭さを放っていた。心地いい眠気がようやくやってきた。

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