第五話 再会 ――崎山留佳の場合


 背はあまり伸びなかったようだ。切長の瞳は昔と変わらない。髪型は、おかっぱからショートボブに変わっている。飾り気のない黒いセーターにスリムなジーンズ姿。中学の頃の面影を残しつつ、立派な女性に成長していた。


「四年ぶりだね。元気だった?」

「うん……。隣座っていい?」


 断る理由がないので了承する。座っていいかと聞いたのは留佳なのに、なぜだか遠慮そうに腰を下ろす。


「活躍しているね。まだまだ世界王者にはなれなさそうだけど」

「厳しいなぁ。これでもやっと三位には入れたんだよ」

「知ってるよ。見てたし、現地にも行ったから。昌親のためじゃないよ。先輩のため」


 それを聞いたら、長澤先輩は喜ぶだろう。あの人は昔から留佳が大好きなのだ。さっさと告ってしまえばいいのに、何に遠慮しているのか、そう言う話は全く聞かない。


「……私、昌親が盛岡を離れるときに言ったから。世界王者にならなきゃ許さないって」

「そうだったね」

「でも、三位までのぼりつめたから、少しだけ許してあげてもいい」


 そこからは四年間聞いていなかった彼女の近況だった。互いのメールアドレスは知っていたけれど、互いに何も送らなかった。別れ際にああ言った手前、留佳は連絡しづらかったのかもしれない。俺も練習や試合に明け暮れて何も送らなかった。

 高校には二ヶ月遅れて入学したこと。公立高校はそれなりに楽しく、部活はスケート部でマネージャーを務めていたこと。二年生になって、文系か理系かで迷って、文系に進んだこと。それなりに真面目に受験生をしていたから、成績も偏差値も良かったこと。今は盛岡大の文学部に通っている。高校時代から盛岡スケートセンターの受付のバイトをやっていて、今は週に三回は来ている。大学の勉強とは別に、スケート部のマネージャーなどをやっているうちに裏方業務にも興味が出てきたこと。


「留佳がここでバイトしているなんて思わなかったな」

「そう? 結構楽しいんだよ。クラブの練習だけじゃなくて、どうやったら一般の方がスケートに興味を持ってくれるか、そんなことも考えたりする。……それに」

「それに?」

「もし、ここでバイトしていなかったら、今日、昌親と再会していなかったかもね」


 そうかもしれない。連絡はしなかったけど、留佳のことは気にかけていた。彼女との苦い思い出が、俺にとっても多少のしこりになって残っていた。駅を降りた時の苦味はそれだ。


 話す顔が笑っていて、その事実に安心する。

 最後に見たのは泣き顔だった。

 どこにでも行っちゃえ、昌親なんて大っ嫌いだ。別れる時、泣きながら留佳はこう言った。


 留佳は、自分が抱えている熱いものを、俺にも持っていて、返して欲しかったのだろう。

 思いには気が付いていた。恋愛が煩わしいとは思わない。だけど、返すものがなかったから、知らないふりをした。友情以上の感情は持ち合わせていなかった。今も昔も、大切な友人、という表現が一番当てはまる。


 留佳に、自分のために長野五輪を諦めてくれと言われた時、俺は躊躇わずに氷上に向かっていった。痩せほそって、ぼろぼろと涙を流す女の子を置いて。留佳の気持ちも考えろと長澤先輩には怒られたが、中途半端な優しさは自分も彼女も余計に傷つけるだけだ。それに、長野が終わって、俺にも四年後があるかはわからない。ここで留佳のために立ち止まれなかった。


 目指すべき頂があって、銀盤という戦うべき世界がある。

 滑りたいプログラムがあって、飛びたいジャンプがある。

 共に戦い認め合ったスケーターたちと、心ゆくまでぶつかり合いたい。

 自分に嘘はつけない。心の全ては氷の上にある。自分の滑りが誰かを傷つけたとしても、初めてフィギュアスケートを見た時から、氷上の戦いに身を置いていたかった。


 氷上の出雲が観客席の方を振り向いた。立ち止まり、こちらを見やって思いっきり手を振った。――留佳に対して。

 留佳は手をあげて出雲に応えた。その顔を見て合点がいく。……なるほど。


「……熱いねぇ」


 自分でも冷やかしめいた声だったと自覚している。思わず顔が緩んだ。そんな俺の顔をみて、留佳は、音が出るほど息を飲んだ。


「違う! そういうわけじゃないから! ただ、その、手を振り返すなんて普通でしょ?!」


 顔を真っ赤にしながら言い訳をする。うーん、その言い訳って、普通に墓穴を掘るだけだと思うんだけどなー。


「照れることないでしょ。出雲は可愛いし、礼儀正しいし、いい子だし。年下の方が色々と相性がいいかもしれないよ?」

「あのね、馬鹿でしょ。年を考えてみて。私たちは十九歳、あの子はまだ一桁よ!? 年下って表現すら犯罪! 干支が一周離れている!」

「へー。好きなことは否定しないんだ」


 ぐっと留佳が押し黙る。図星らしい。本当に素直だ。

 子供たちの荒いスケート音。騒ぎ声。スケートママがリンクサイドに控えている。もっと集中してやれと我が子を激励する親もいる。


「……出雲はさ。昌親がここを離れて、私が一番辛い時に隣にいてくれたんだよね」


 一拍の沈黙の後、留佳が口を開いた。俺の方を向かず、手を組んで、手のひらの中にあるものを抱えるように。

 語り始めた留佳は、少しだけ幼く見えた。大学生ではなく、中学の頃に戻ったみたいだった。右手に残った吐きだこから目を逸らさずに話を聞く。えづく音と、それを始めて見た時の自分の声がよみがえる。これを見た時確かに驚いた。


「先生はやめた後も、好きなだけここにいていいよって言ってくれて。滑れなくなっちゃって、心も折れちゃって。それでもここから離れ難くて。あの辺でずっと泣いていた時にこう言ってくれたの。『ぼくがいるよ。僕があなたをオリンピックに連れて行く。金メダルとって、あなたの首にかけるんだ』って。……なんだかその時に笑っちゃったの。金メダルが欲しかったわけじゃないのに、こんな小さい子にまで心配かけて、馬鹿みたいだなって」


 留佳があの辺を指した。今、俺たちがいる場所と対角上にある席だ。


「でもそれから、あの子の成長を近くで見たくなった。よくあの辺で一緒に座ってたよ。先生に勧められてスケートリンクでのバイトを初めて、他の子に比べて贔屓しないようにして。やっぱり嬉しかったんだよね。出雲の言葉に、私は救われた。だから、なんとかスケートが嫌いにならずにいられる。……あの子のスケートは、誰より綺麗だしね」


「……そっか」


 苦しみの一端を担った俺はそれだけを返した。


「でも、それだけ。本当に、それだけだから! そういう感情は、一切、ないから!」

「はいはい、わかったよ」

「ねえ、本当にわかったの?」


 本人がここまで言うので、そういうことにしておこう。

 留佳は携帯電話で時間を確認した。思ったよりも長く俺と話していたようだ。


「ごめん。受付、高校生の子に任せて抜け出してきたんだった。そろそろ戻るね。昌親もゆっくりしていって。たまには盛岡に帰ってきてよね」


 留佳は振り向かないで仕事に戻っていった。


「……相愛か」


 リンクの冷たさに身を浸しながら、誰にいうでもなく呟いた。

 出雲の言葉と、留佳の顔を思い浮かべる。さっきは茶化してしまったけれど、吐露した思いは本物だった。留佳は意識的に戸惑っているようだが。


 俺にはこれから二人がどうなっていくかはわからない。しかし……。

 出雲が育てた花が咲いた時。

 その時に、留佳にとっての恋が始まるのかもしれない。


 氷の上では変わらずに出雲が滑っている。今この瞬間も、出雲は抱えた種を大事に育てているのだろう。

 ジャンプは飛ばずに、出雲は端から端までと一直線にステップを拾っている。簡略化されていたが、手の動きやステップの構成に見覚えがあった。軽く、気まぐれで、ピアノの打鍵に合わせてエッジが深く傾き、ヴァイオリンとともに伸びる。意外な展開を見せる。……これは確か。


 ――私はこのプログラムで長野五輪に出場すると高らかに宣言していた。

 俺は、じゃあ一緒に長野五輪でも目指そうかと彼女に簡単に返した。


 崎山留佳の一九九六―一九九七シーズンのショートプログラム。「序奏とロンド・カプリチオーソ」の見せ場のステップだった。


 俺はそのまま氷上を眺め続けた。もし俺が、留佳と同じ思いを抱えていたら、何かが変わっていたのだろうか。一瞬考えかけて、すぐにやめる。それは考えるだけ無駄だ。


 彼女が前を向いて歩いているならそれでいい。

 出雲が拾った種が、このまま育つといい。出雲のためにも、留佳のためにも。


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