第四話 氷華の種を抱きしめて


 ……出雲の小さい頭を膝に乗せながら、昔のことを思い出した。あの時何気なく言ったのだが、彼は覚えているだろうか。あの時四歳だったから、忘却の彼方の可能性も高い。

 コートの中の小さいものがもぞもぞと動いた。少しずつ瞼が開く。ぼんやりとした瞳が俺の顔を捉えていった。


「あれ……。どうしてあなたがここに」


 氷の上で動けなくなってから、自分がどうしていたか。出雲は全く意識していなかったようだ。椅子に寝かされていて、俺の膝に自分の頭が乗っているのに純粋に驚いている。


「久しぶり、出雲。大きくなったね」

「……チカくん。ぼくのこと、覚えていてくれたんですね」


 俺はたまに、昌親の親の字をとってチカと呼ばれることがある。肉まんと同じぐらいチカと呼ばれるのは好きではないのだが、小さい出雲に言われても悪い気はしない。


「覚えているよ。具合が悪くなったみたいだから、ここまで連れてきて休ませたのさ。迷惑だった?」

「とんでもないです。ありがとうございます。オリンピック見てました。すごかったです」


 俺は出雲の賛辞に、頭を撫でることで応えた。歳不相応に丁寧な言葉遣いだ。俺が盛岡を離れたのは四年前。出雲は今いくつだろうか。……小学三年生ぐらいか? 


「いつもこんな調子?」

「前よりはましです。今日は良かったんですけど……」

「お母さんは?」


 俺がいた頃は、お母さんがつきっきりで練習を見ていた。周りを見渡す限り、出雲のお母さんらしい人の姿は見当たらない。いたら、俺が抱える前に飛んで来そうなものだが。


「お仕事始めたんです。ぼくの練習を見にくるのは、たまにです」

「そっか……」


 それ以上は突っ込んで聞かなかった。スケート費用はばかにならない。小学生で、今はあまりかからなくても、これから練習を重ねていけば、お金はあってもあっても足りなくなる。指導料、リンク使用料、遠征費用、振付代、衣装代、靴代……。数えればキリがない。

 そこで出雲は咳をした。


「ここはいつも寒いからね。ほら、喉を冷やさないで。のど飴あるけど、舐める?」


 脱いだ上着のポケットからのど飴を出して出雲に渡した。封を開けて、コロコロと口の中で飴が躍る。ハッカの匂いがうっすらと漂った。肩と背中が冷えるようで、出雲はアルマジロのように体を丸めて、コートからはみ出ないようにしている。布地から出ているのは顔だけだ。


「出雲はスケートが好き?」


 氷から離れて欲しくないとは思ってはいた。しかし、家庭の事情や病気で離れざるを得ない場合も少なくはない。体がそれなりに強くなったら、スケートをやめてしまう可能性もあっただろう。俺の想像でしかないが、出雲のお母さんは、今後のことを見据えて仕事を始めたのかもしれない。少なくとも今後、お金のことで出雲がスケートをやめなくてもいいように。

 出雲は少し考えて口を開いた。


「好き……。好きなんですけど、今は、好きだけじゃなくて。ちょっと違います」

「違う?」


 出雲は顔を動かして、リンクの方に向けた。スケーター予備軍の子どもたちが滑る、六〇×三〇メートルのスケートリンクを。


「昔、氷の上で、ある人が流した涙があったんです。ぼくがそれを拾いに行ったら、涙が氷の種になりました。とても綺麗で、ぼくはその種を、今でも大事にしています。ぼくが滑っていたら、きっとその種は育って花が咲くかもしれないから」


 随分と抽象的な話だった。出雲はこの話を、誰かに聞かせたことがあるのだろうか。


「ぼくが滑ると、笑ってくれるひとがいる。ぼくはそのひとのために滑りたい。滑るのは大好きだけど、一番はそれかもしれないです」

「そっか……。じゃあ、出雲はそのひとを、自分の滑りで幸せにしないとね」


 俺がそう受け答えると、はっと出雲は俺の方を向いた。

 大きく目を見開いて聞いてくる。


「ぼく、そのひとを幸せにできるかな?」


 なれるよ、という安置な言葉は使いたくなかった。夢は語るものではない。掴み取るために行動するのが肝要だ。


「できるかな、じゃないよ。自分でやるかどうかだ。本当に大事なことは、自分で決めなきゃね。そのために、出雲はどうなりたい?」

「あなたに続きたい。それで、オリンピックで金メダルを獲る。獲って、その人の首に掛けたいんだ」


 顔色は青白いながら、確固たる口調で宣言する。躊躇いがなかった。昔の言葉を覚えてくれていて俺は嬉しくなる。

 その意思の強さがあれば、これからも滑っていける。


「……いい答えだね。その言葉を忘れないようにね」


 出雲は俺の膝から頭を離した。熱は引き切っていないけれど、呼吸は落ち着いている。確かに、前よりはマシだ。


「もう少し滑ってきます。ありがとうございます」


 深々とお礼を言って、出雲は靴を持ってリンクに戻っていく。また発作っぽいのを起こすかもいしれない。もっと熱が上がるかもしれない。


 それでも出雲は氷の上から離れないだろう。


 しばらくリンク上の出雲を眺めていた。リンク上には二十人以上の子供が滑っているのに、出雲の滑りはすぐにわかる。特徴的な服を着ているわけではない。似たり寄ったりな拙い滑りの中で、出雲の滑りだけは見分けることができた。顔が異常にいいからではない。そもそも、俺の位置からでは顔なんてよくわからない。

 指先が綺麗だ。のびたフリーレッグも無駄がない。簡単なターンの組み合わせだけど、切り替えが早い。滑りそのものに華がある。それも独特な。野に咲く花ではない。剣山で育ち、その上でしか咲けないような特殊なもの。それでいて、自らのスケールの大きさを示すような不思議な魅力がある。宇宙的? 詩的? いや違う。……ようやく言語化できた。


 心が躍る。

 新種の花の種を発見した時の高揚は、今の俺の心を指すのかもしれない。


「昌親」


 俺を呼ぶ声を背中で聞く。聞き覚えがある優しい声。振り向くと予想通りの人物が立っていた。

 顔を合わせるのは盛岡を離れて以来だった。

 自分が微笑んでいることを確認して、その人物の名前を呼ぶ。


「久しぶり、留佳」

 かつてのリンクメイトの崎山留佳は、控えめに笑った。

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