第二話 再会 ――神月美里の場合
「おかえり、昌親。五輪の入賞と、世界選手権の銅メダルおめでとう」
練習拠点を移動するといいことがある。故郷のような場所が増えることだ。おかえり、と言ってくれる人がいて、息をすると何にも邪魔されることなく清涼な空気が肺に入ってくる。体が土地に馴染む感覚。ここは第二の故郷だ、と思う。
「神月先生もお変わりないようで、何よりです」
「何言ってんの、変わったわ。高血圧になって朝が辛くなった。肩こりもすごいのよ」
おかえりと言ってくれたのは、四十過ぎた背筋の伸びた綺麗な女性。
神月美里。長野五輪の頃の俺の指導者だ。
俺は先月の世界選手権で獲った銅メダルを神月先生の首にかけた。ソルトレイク明けの世界選手権は、開催地が長野だった。地元開催という地の利もあるのだろうが、ともかく俺は初めて世界選手権のメダリストになれた。
これが長野五輪で滑った場所だったら、もう少し深い感慨に浸れたのだろう。十五歳で出場した長野五輪は十五位。フィギュアスケートの会場はホワイトリング。今ではホッケーやカーリングの試合で使われることが多いようだ。
先の世界選手権の会場はエムウェーブ。長野五輪では、スピードスケートの会場になった場所だ。
会場は違えども、長野五輪から四年経ち、長野の地で世界選手権のメダリストになれた。多少は自分が成長しているのだと実感できた。
「横浜ではどう? 総一郎はよくしてくれている?」
「頑張っていますよ。星崎先生は、教え方はわかりやすくても厳しいですから。神月先生が聖母に見えま「頑張っていますよ。星崎先生は、教え方はわかりやすくても厳しいですから。神月先生が聖母に見えます」
言ってくれるなぁと神月先生が笑った。手は胸元の銅メダルを撫でている。神月先生の指導から離れて久しいが、彼女の元でなかったら、俺は長野五輪に出場は出来なかっただろう。感謝してもしきれない。
「いいわねー、横浜。私もたまには帰りたいわ。でも、私が子供の頃とはもう違うわよね」
「あれ、先生。横浜の生まれでしたか?」
初耳だった。生まれも育ちも盛岡で、だからこそこのリンクにいるのだと思った。
「そうよ。郊外のデパートに、スケートリンクが併設されていてね。そこで始めたのよ。高度経済真っ盛り。父にスケート靴をねだってね。懐かしいわ、もうそんなリンク、残っていないわよね?」
「ないです。……いや、あったかな。ちょっとわかりません」
「そっか、残念」
そう呟く先生は、本当に残念そうだった。
俺は観客席から、練習風景を眺めた。フェンスが所々禿げかけて、観客席はくすんで見える。横浜のホームリンクから比べると、寂れている印象は否めなかった。
地方のリンクは経営が厳しいんだ、と俺がいた頃から常々神月先生はこぼしていた。この盛岡のリンクも例外ではない。故郷のリンクは大丈夫だろうか。釧路クリスタルセンター。生まれ故郷を離れて久しいが、気にならないわけではない。
「そうだ。真一には会った?」
「会いましたよ。世界選手権で。大学の卒業と一緒に引退するって言っていました。そうなると次のシーズンですね」
「そっか、そんな時期になったのね」
盛岡時代の先輩である長澤真一とは、先輩後輩の間柄を超えていい友人になっている。先輩のソルトレイクシティ五輪代表が決まった時は素直に嬉しかったし、俺が世界選手権のメダルが決まった瞬間は涙を流して喜んでくれた。来年もメダルを獲ったら、酒を奢ると約束してくれた。そうなったら横浜中華街でうまそうな紹興酒を奢ってもらおうと密かに決めていた。来月に二十歳になる。来年の三月には、堂々と酒が飲める。
「昌親はどうするの? あんたも大学卒業と一緒に引退するの?」
「いえ、トリノを目指します。三回目の五輪を目指すなんてゼータクって言われそうですけど」
「ゼータクじゃないわ。幸せなのよ。だから、遠慮せずに思いっきりやりなさいよ」
俺の背中を、神月先生が思いっきり叩いた。
ここはあまり変わっていない。スケーター予備軍の子供たちがいて、アマチュアアスリートの高校生や大学生がいる。このリンクから何人も全日本選手権の出場者が出たのは、先生の指導の賜物だ。
少しだけ滑らせてもらう。自分の靴は持ってきていた。今日は一般開放ではなく、スケートクラブの貸し切りの練習の日だった。さすがにこのリンクに通う生徒たちは、俺の顔を知っているようだ。堤選手だ、と子どもたちがわらわらとやってくる。メダルすごい、世界選手権の演技見ました、目標にしていますと目をキラキラさせながら口々に言う。
一旦その波が落ち着くと、子供たちは四方八方に別れて滑り出す。
「……ん?」
リンクの端で、丸まっている小さいものを発見した。
一瞬で誰か理解して、俺は小さいものに向かって足を動かした。蹲っているのは一人の少年だった。桜と鉱物が交わって生まれたような綺麗な男の子。
「出雲!」
俺と、一人の女の子が叫びながらやってくるのは同時だった。
「出雲、大丈夫? 吸入器ある?」
女の子の問いに、答える余裕がないらしい。少年は胸を押さえている。相当苦しいのか、隙間風のような呼吸をしている。
俺は二人の様子を見ながら割って入った。
「ちょっといい? ええっと、君は……」
利発そうな女の子だ。見覚えはあるけれど、名前が思い出せない。俺が盛岡にいる時もここにいたような気がするけど。女の子はさっき目標にしています、と言ってくれたうちの一人だ。
「安西理恵です」
「理恵ちゃんね。彼、いつもこんな感じなの?」
理恵ちゃんはこっくりと頷いた。蹲っている子ははっきりと覚えているのに、目の前の女の子の名前を忘れていた。心の中でごめんと謝りながら、俺は少年――神原出雲を抱きかかえた。前に抱き上げた時より、年相応に重くなっている。
大きくなったな。
「大丈夫、ちょっと休ませよう」
額に手を当ててみる。少し熱を持っているようだった。顔も赤くなって、硬く目を閉じて荒い息を繰り返している。
出雲を片手で抱いたまま、氷上から降りる。エッジカバーをつけて観客席に座る。出雲の靴紐も緩めて脱がした。靴の扱いがいい。錆もないし傷もない。大事にしている証拠だ。エッジカバーがどこにあるかわからなかったので、理恵ちゃんに持ってきてもらった。
小さい頭を俺の膝の上に置く。上着を脱いで、出雲の体にかけた。ぬくもりに安心したようだ。荒い呼吸が穏やかになった。
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