第六章 種の発見【2002年、堤昌親】

第一話 戦士の帰還


 岩手山は変わらずに冷たい風を運んでくる。乾燥していて容赦ない。痛いというか、頬に風が撫で付けられると、皮膚の水分が根こそぎ奪われていく気がする。四月になってもまだまだ春には遠い。桜前線は、この街にまだ届いていないのだ。


 懐かしさと少しの苦さを持って、俺はJR盛岡駅を降りた。


 盛岡に戻ってくるのは四年ぶりだった。今の俺はフィギュアスケートのアスリートだ。グランプリシリーズをはじめとした大会に転戦し、日本代表として世界選手権に出場し、最後には練習拠点に戻ってくる。一年と少し前まで、練習拠点は自動車産業の街、アメリカのデトロイトだった。今は中華街とカモメの街、横浜。

 タクシーを拾って行き先を告げる。運転手さんが、あれ? この間のソルトレイクシティ五輪に出ていた? と聞いてくる。バッチリ出ていましたよと答えると、折角ならサインをくれと帽子と油性マーカーを俺に渡してきた。帽子はともかく、油性マーカーが何故タクシーに入っているのだろうか。運転手に尋ねると、前の人の忘れ物だと答えてくれた。


 私物なのかタクシー会社の備品なのかわからない帽子に直接書くのはいいのだろうかと思いつつ、つばに油性マーカーでサインを書く。堤昌親、と。

 運転手が目を見開いた。


「ああ、君は堤くんだったか! オリンピック選手だったのは知っていたけど、まさか君とは思わなかったよ!」


 今ここでわかったのか。顔見てわかってくれよと思う。誰だかわからないけれどオリンピック選手っぽいからという理由でサインをねだった運転手も雑な人間だなーと呆れてしまう。面白いからいいけど。


 それでも悪気のない顔で「オリンピック入賞おめでとう」とか「君は盛岡の誇りだよ」と言ってくれると、なんでも許せる気分になるから、人間とは現金なものだ。笑いながら、俺は行き先を告げる。


「盛岡スケートセンターまで。お願いします」


 四年前まで練習していたリンクに向かって、タクシーは軽快に走り出した。


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