第六話 私の人生は氷上にある

子どもたちが氷の上からはけていく。壁時計を見たら、六時を指していた。この時間は製氷の時間だ。ザンボニーが氷の上に入っていく。

 熱いコーヒーを舌に転がしながら、考えを巡らせる。


 あの子が選手になるのなら。

 本当に五輪を目指すのなら。

 私の元ではだめだ、と思った。


 この子の才能に、私自身がついていけていない。体が弱いと決めつけて、何も見ようともしなかった私では、きっと彼を、彼が目指したいところまで導けない。

 選手はそれぞれ氷上に咲く花だと私は考えている。あの選手はチューリップのようで、あの選手は薔薇のようだと。それぞれ個性があるから、個人に対応して育てるべきなのだと。そうしてきたつもりはあった。つもりかもしれないけれど。

 でも、じゃあ出雲はなんだろう。

 先日のアンダンテ・カンタービレを見たときの戸惑いと興奮が思い起こされる。初めてスケートリンクに入った時の、未知の世界に足を踏み入れたような高揚。レイクプラシッド五輪に出場した時の興奮。堤昌親を始めて見た時の畏怖。……同じか、それ以上の衝撃を覚えている。

 既存の花では当てはめられない。だけど新種の花とも違う。新種の花は、既存の花同士が勾配しなければ生まれない。鈴蘭に似た何か、パンジーに似た何かが生まれる。

 かつての教え子の言葉がゆっくりと蘇る。

 あの子はとっても繊細な、氷の華です。大事に育ててあげてくださいね。


「出雲」


 製氷中に、私は、客席に戻ってきた出雲に向き合った。出雲は肩で息をして、顔に汗が張り付いていた。喉を鳴らしながら水を飲んでいた。


「選手になりたい?」

「え?」


 何度か瞬きをする。瞼が動くたびに、星が弾けた気がした。


「正直に言うと、あなたの体はアスリートには向いていないと私は思う。でもあなたには、それを補ってあまりある情熱がある。もう一度聞くわ。あなたはどうなりたい?」


 才能とは言わなかった。生まれ持った才能を、身を焦がすほどの情熱が上回ることなんてざらにある。例えば紀ノ川彗。彼にアスリートとして天性のものは見つけられない。だが、スケートが好きで好きでたまらないという思いが滑りに溢れている。その思いが、彼をスケーターへと転化させ、トリノ五輪へと連れて行った。


「オリンピックで金メダルを獲ります。取って、大事な人の首に掛けたいんです」


 出雲は先ほどと同じように、真っ直ぐに答えた。

 その決意はいつから生まれたものなのだろう。


「大事な人って、誰? 御両親?」


 出雲は首を横に振った。兄弟? 友達? 私の問いに、出雲はちらと目線を遠くに向けた。彼の眼差しは、私を通り過ぎ、リンクのフェンスをも通り過ぎている。フェンスの向こうには事務室がある。事務室にいつもいるのは……。


 ああ、そうか、と思い至った。

 この子はずっと前から、そういうつもりで滑っていたのだ。


 先日、元教え子の長澤真一から手紙が来ていた。アマチュア選手を引退してから三年。彼はショースケーターとして活動する傍ら、インストラクターの資格も取っていた。ショースケーターも悪くはないが、指導者としての道も歩みたい。夏頃に盛岡に帰る。そんな言葉が、几帳面な字で綴られていた。

 真一なら出雲を知っている。彼が帰ってきて指導者になったら、出雲を任せてみよう。私のように頭の凝り固まった人間よりも、最近まで滑っていた真一の方が柔軟に指導できるはずだ。


 それまでに、私は私の仕事をする。

 豊かな土を作り、その土壌に種を蒔く。真一が水を撒いた時、鮮やかな芽が出るように。


「わかった。じゃあ、しばらく私と一緒に頑張りましょう。まずは全日本ノービスね」


 出雲は私の言葉に顔を輝かせた。

 よろしくお願いします、と元気に頭を下げる。

 ザンボニーが子供たちの練習のあとを綺麗に消していく。ガソリンと、どこか鉄っぽい匂いが、氷の温度に混じりあっていく。嗅ぎ慣れた匂いと温度。つまりこれは、スケーターになるかもしれない子供たちを育てる私の日常。


 これからもきっと続いていく。

 まっさらになった氷の上を、出雲が真っ先に飛び込んでいった。




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