第五話 時には昔話を



 その日から、私は他の子の練習も見つつ、出雲の動きをじっくり観察した。

 膝と背中が柔らかい。体の柔軟性ももちろんあるが、女子に近いしなやかな筋肉を持っているからだ。背中を反らせたイナバウアーは、トリノ五輪女子シングルの金メダリストの代名詞。それよりも長く、リンクの中央で半円を描いた。

 ジャンプの中では、難易度の高いルッツジャンプを軽々しく飛ぶ。フリップには苦戦しているが、この年で完璧に跳べていたのを知らなかったなんて。

 スケートは年相応に拙いが、スピードがある。これから練習を重ねていけばもっと深化できるだろう。


 滑りに才能が溢れている。……確かに綺麗だ。

 見れば見るほど、今までの自分に落胆する。本当に、私は何も見ていなかった。


 虚弱体質の割にはうまい。そうとしか思わなかった。私はずっと色眼鏡をかけて出雲を見ていたのだと思い知らされた。体が弱いから無理。きっと選手にはなれないと決めつけて。

 午後五時半。体が冷えたからコーヒーを飲みたくなった。学校帰りの小学生達の練習がひと段落したところで、私は一旦氷上から降りた。

 エッジカバーを付けて指を摩っていると、リンクサイドに程近い観客席に、留佳が座っているのに気がついた。彼女の勤務時間は終わっている。紙コップのコーヒーを両手で抱えながら、一人の練習の様子を熱心な眼差しで見つめていた。

 視線の先には出雲がいる。部活動に入っていない彼は、授業が終わった後、四時半にはここにきて、ウォームアップを始めている。今はゆっくりとスイングロールとスネークで氷上に図形を描いている。

 私は練習風景を眺める留佳に声をかけた。


「あ、先生……。すみません、気がつかなくて……」

「いいのよ。横、ちょっといい?」

「どうぞ」


 少しぎこちなく留佳の隣に座る。


「……最近、あなたとの昔のことをよく思い出すのよ」

「私との?」


 目を丸くさせる留佳に、私は、そう、と肯定した。


 この子の右手には、まだ吐きだこが残っている。中学の時に起こした摂食障害の名残だ。今でもちゃんと食べられているのか、何故だか心配になる。


 留佳は、私の元教え子だった。六歳からスケートを初めて、将来有望と目されていた。しかし、中学二年生の時二次性徴でジャンプが上手く飛べなくなってしまった。小学生の時は負けなしだったのが、体が大人に近づくにつれて結果が出せなくなった。焦った彼女は食べて吐いてを繰り返した。無理なダイエットで摂食障害を起こした。それでも無理に練習を続け、右足首を骨折し、最終的に氷から降りた。笑えないが、この世界ではよくある話だ。

 留佳の隣で練習していたのが堤昌親だったのも彼女にとっては不運だった。彼は留佳とは真逆で、中学時代は大きな挫折もなくスケーターとして成長し、十五歳ながら長野五輪に出場した。その才能を後押ししたのは、他ならぬ私だった。


 瑠佳には、ちゃんと食べなきゃダメだと何度も言った。隠れて食べて吐くなと忠告した。このままだと競技に出るどころか、全く滑れなくなる。女性として生まれたからには、向き合わなくてはならない。今はジャンプが飛べなくても、スケーティングの練習をしていれば勝機は出てくる。何度そう説得を試みたかわからない。


 その度に留佳は反発した。先生には私の気持ちなんかわからない。食べなくても体が重いなら、何も食べないか食べて吐くしかない。綺麗に滑れてもジャンプがとべなかったら勝負にならないじゃない。だからこれだけ苦しんでいるのに。

 私は昌親と長野五輪に行きたいだけなんだ。あいつに置いていかれるなんて絶対に嫌。


 あの時の留佳が、何故そこまで長野五輪に固執したのか。本人には聞いていないが、対等に滑っていた隣人がいきなり遠くにいく寂しさでもあったのだろうか。

 あるいは、昌親に恋をしていたか。


 ……留佳が昌親のスケート靴を隠したことがあった。自分のために長野五輪を諦めてくれと泣きながら懇願したのだ。それが、一九九七年の全日本選手権のフリースケーティングの最中だった。その年の全日本は、長野五輪の最終代表選考会を兼ねていた。

 靴が見つかったのは昌親のグループの六分間練習が始まる十五分前。そんな心を乱されるアクシデントがあったにも関わらず、昌親はフリーを完璧に滑りきった。表彰台の一番上に上り、長野五輪の代表を決めた。


「あなたの苦しみは私にはわからない。だけど、あなたが辛いからといって、その辛さを昌親に押し付けてどうするの! 昌親には未来がある。それを邪魔しては駄目!」


 スケート靴が見つかった直後、痩せほそった教え子の頬を引っ叩いて、私は怒鳴った。その時の留佳の顔は忘れられない。瞳の光が消え失せて空っぽになる。

 昌親には未来がある。フィギュアスケーターとしての未来だ。

 それは、崎山留佳にはフィギュアスケーターとしての未来がないというのと同義語だった。

 留佳が右足を骨折したのは、長野五輪の一ヶ月前だった。私と昌親のキス&クライを、彼女は病室のテレビで見ていた。


 ……最近、出雲を見ながら思い出すのは、堤昌親や長澤真一のように、成功した教え子ではない。留佳のように、育てきれずに枯らしてしまった子供たちだ。


 そういう子が、実はもっといたのではないか。私が気付かなかっただけで、目をかければ、もう少し気を遣っていれば育っていた子がいたのではないか。厳しくしすぎて枯らしてしまった子もいただろう。留佳のように、向き合い方を間違えた子だっている。

 あの時ああしていれば、と思うのは間違いだとわかっている。だけど、ひとつボタンを正しくはめていれば、この子にはスケーターとしての未来があったかもしれない。

 私はそういった内容を、ぽつぽつと元の教え子に向かって呟いた。もう終わったことで、言っても仕方がないのに。テレビ局のインタビューで、生徒一人ひとりに向き合うことと答えていた自分が馬鹿馬鹿しくなった。一人の生徒にだって、まともに向き合っていなかったではないか。


「……私、先生が受付のバイトを紹介してくれた時、本当に嬉しかったんですよ」


 沈黙が流れたあと。目線はあくまで出雲に向けたまま、留佳が呟いた。


「自分のせいなのに、何もかもうまくいかなくて。本当にスケートが嫌いになりそうだった。でも私、やっぱりスケートが嫌いになれないんです。……あの子がいるから」


 氷上の出雲は淀みなく滑っている。スイングロールとスネークの次は、氷上にSの字を描く。


「だから先生。私に何も謝る必要はないんですよ。先生の忠告を聞かなかった私が悪かったんですから」

「……私は、出雲のスケーターとしての将来を潰そうとしていた。今まで基本的なことしか教えなかったのよ。体が弱いから無理だって決めつけていた」


 あの子は無理。そう思っていたのは私だけだった。取材の日に出雲が滑った時、他の練習生は何も驚かなかった。一人で言葉をなくしている私が滑稽にうつったかもしれない。理恵ちゃんの軽蔑の眼差しは痛かった。指導者としてのキャリアが長くなり、知らないうちに私は傲慢になっていたのだろう。


「まだ潰していませんし、あの子は潰れません。私は、誰がなんと言おうと、あの子がオリンピックの金メダルが獲れるって信じていますから」


 にっこりと笑って、留佳が宣言する。スケートをやめて以来、この子は笑った顔にも少しの翳りがあった。だけど、出雲の話をする留佳の顔は、今まで見たことがないぐらい晴れやかだった。

 傷を乗り越えたわけではないだろう。しかし留佳は、しっかりと前を向いて歩いている。安心した。コーヒーを淹れるために立ち上がる。そして……。


「なんだろ。あなたも昌親と同じことを言うのね」

「……それは言わないでください!」


 顔を真っ赤にして留佳が抗議した。相変わらず、昌親という名前に過敏するな。私以上に、彼女の傷の中心にいるからか。

 コーヒーサーバーに残っていたコーヒーをカップに注いで戻ると、留佳はいなくなっていた。

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