第四話 アンダンテ・カンタービレ(羽毛のように軽く)
取材の日、子供たちは全員やってきた。今は六時。約束の時間は七時だ。
「みんな、今日はテレビが来る日だけど、いつも通りに練習するからね。テレビの方がきても、変にはしゃいだりしないでね」
ほとんどの子供が元気に返事をする。そう、テレビが来るけれど、基本的にはいつも通り。円を描き、八の字を描き、氷の上に巨大なSの字を描く。
練習に没頭していると、入り口付近が騒がしくなった。対応しているのは留佳だ。今日は朝早くから出勤してもらった。いつもの盛岡スケートセンターのロゴが入ったジャンパーではなく、小綺麗な黒のジャケットを羽織っている。
「テレビの人、来てますか?」
「来てるきてる。……そんなこと聞いてないで、理恵ちゃん。練習してなさい」
理恵ちゃんは中学生だ。去年、小学六年生ながら、ノービスAで中学一年生に混じって二位に入った。将来有望なスケーターの一人だ。
挨拶をするため、一旦氷上から上がる。先日やってきたプロデューサーに、朝の情報番組でよく見かける綺麗な女性レポーター。カメラマンは大仰な三脚とカメラを持ってきた。プロデューサーの清水さんの名刺は事前に頂いたので、残り二名の方の名刺を頂戴する。女性レポーターが伊藤。カメラマンが能登。
「事前にお伝えしたとおり、生中継でお伝えしますので、よろしくお願いいたします」
「はい。それで、これがリストです」
写真付きの生徒の名簿を挟んだバインダーを、プロデューサーに渡す。赤い太字で名前が書かれた子が、特に有望な子である。テレビ局から、特に有望な子をあらかじめ教えてくれると、取材がスムーズで助かりますと言われていた。
「へえ。ノービスAで二位だった子がいるんだ。そこまでチェックしていなかったな。一番は……やっぱり中学三年の宮野沙莉(さいり)さんか。去年の全日本ジュニア四位の子ね」
「宮野は今シーズン次第で、来年シニアに上がります」
沙莉は、小学校までは私が指導していたが、今は別のインストラクターが主に見ている。私一人では見切れないし、私よりも相性の良さそうなインストラクターがいたら、選手の成長のためにも、そちらが教えた方がいいのだ。
テレビ局の方を伴ってリンクサイドに入ると、話に出ていた沙莉が大きなビールマンスパイラルでリンクを一周していた。長身の彼女は、ポーズを取って滑るだけで迫力がある。ポジションの美しさもさる事ながら、チェンジエッジも流れもスムーズだ。テレビ局が来ているのをチラチラと意識している子がいる。理恵ちゃんは得意の三回転ループを決めた。
「こりゃ有望な子が多いね。男の子が十人に、女の子が十人か。男の子で有望なのは……ノービスBで二位に入った斉藤篤人くんか」
能登さんが篤人を探した。小学校五年生の篤人は、本人がダンゴ虫スピンと名付けた珍妙なスピンの練習をしている。背中を丸め、フリーレッグを背中で隠すように折りたたんだスピンである。その横で練習していたのが……
「あの子……。すごく綺麗ですね」
レポーターの伊藤さんが、うっとりした瞳で、ベーシックなキャメルスピンを回っている「あの子」を見た。
「雰囲気がすごくある子ですね。えーっと。……神原出雲くん、ですか? 学年は……」
「中学一年生です」
私の傍にいた留佳が口を挟んだ。卵型の輪郭の留佳に、ショートボブはよく似合っている。テレビ対応があるからか、いつもよりしっかりとした化粧をしていた。
「去年のノービスAは棄権ですか。大会の実績はあまりないようですね」
「でもすっごく綺麗だと思いませんか? あの子の周りだけ、別の世界が展開されているみたいで」
「ありがとうございます」
伊藤さんは、熱っぽく出雲の演技を讃えている。私と留佳は揃って頭を下げた。伊藤さんのみた「綺麗」は、出雲の顔のことを言っているのだろうか。それとも……。
いや、そんなはずはない。出雲がどんな子かは、私がよく知っている。
テレビカメラが子供たちの練習風景を映す。プロデューサーも、自前のカメラを持って、シットスピンの練習をする沙莉を捉えた。
「やっぱり、活気がありますね」
「ここのリンクで指導を始めて、来年で二十年になります。東北では通年営業のリンクは、この盛岡スケートセンターと、仙台の泉ヶ岳スケートリンクしかありません。日本のフィギュアスケートは名古屋や大阪の方も盛んですが、ここも負けていないという自負があります」
「選手を育てるために、何か秘訣はありますか?」
「そうですね……。滑りの個性や身体が同じ選手はいません。もちろん、目標も。なので、スケートでの目標にたどり着けるように、一人ひとりの選手と向き合うようにしています」
元教え子の一人のように「世界と戦う」と、小学校六年生ながらはっきりと目標を持っていた子もいれば、「全日本に出るのが最終目標」と言っていた子もいる。モチベーションも人それぞれだ。
「今育てている沙莉も、国際大会や世界選手権に出ることを目標にしています。ここには昔五輪に選手もいるから、そういう選手の背中を見てみんな滑っているのかもしれませんね」
隣の留佳が、さっと目を逸らした。彼女にとって触れてほしくない部分だったかもしれないが、ここは仕方がない。名門のリンクという意識はないが、確かに五輪出場者は何人か出してきた。
いくつかの質疑応答の後、私たちは氷上に入った。テレビ局の人が氷の上に入ったら、一旦練習をやめて、みんなで一列に並ぶよう話をしておいた。ここから、数人の子供にリポーターがインタビューすることになっていた。
「はい、おはようございます。ここからは盛岡スケートセンターから中継でお伝えします。今年二月に金メダリストが誕生したフィギュアスケート競技ですが、ここ、盛岡スケートセンターでは優秀なフィギュアスケート選手を多く育てています」
一列に並んだ子供たちが、テレビに向かって手を振るう。ちょっと盛りすぎな説明をする伊藤さんだが、まぁ悪くはない。
「盛岡FSCは二十年来の名門クラブです。ここから排出されたオリンピック選手も数多いです。……その中で、私たちはちょっと有望な選手を見つけました」
リポーターの伊藤さんの目が光った。
ちょっと待ってと私は焦る。伊藤さんが、打ち合わせにないことをやり始めた。マイクを持って、一人の子供の前に来た。
出雲の前だった。にっこり笑って、伊藤さんは出雲に尋ねた。
「紀ノ
自分に話が振られるとは思わなかったらしい。驚いて彼――神原出雲は、伊藤さんの顔を見返した。
「この間、トリノ五輪で活躍した紀ノ川選手の真似。やってみない?」
「いいですねー、君、ちょっとやってみてよ! ちょっとだけでいいから」
ディレクターもその気で促した。
紀ノ川彗がトリノ五輪滑ったプログラムは、ショートプログラムがアンダンテ・カンタービレ。セルゲイ・ラフマニノフ作曲の「パガニーニの主題による狂詩曲」の十八変奏と言ったほうがわかりやすい。フリースケーティングが映画「Mr &Msスミス」の「アサシンズ・タンゴ」である。踊り心のある紀ノ川彗のステップは、ショートの柔らかさもフリーのキレのあるタンゴも話題になった。
カメラが回っているから顔は崩せない。だが、私は、内心、かなり焦っていた。このレポーターは一体何を言い出すのか。顔の綺麗さに惑わされたのか。なんでよりにもよってこの子に言ってくるのだ。お願いだから打ち合わせ通りにやってくれ。
「……いいのかな?」
「いいんじゃない? 滑ってみなよ。滅多にないんだから」
「……じゃあ、ショートの終盤で」
私が止めるか否か迷っている時に、不安そうに出雲は隣にいる沙莉に尋ねてみた。出雲よりも沙莉の方が乗り気だった。それをみて、我が意を得たように出雲はこっくりと頷いて滑り出した。
私は気が気ではなかった。大丈夫だろうか、ここで倒れたりしないだろうか。沙莉と伊藤さんを呪いたくなる。生中継という迂闊に止められない状況も。
しかし一歩彼が滑り出して、私は奇妙な心地に陥った。
……あれ?
この子って、こんなに滑れる子だったっけ?
滑っているのは、演技終盤のストレートラインステップである。彗の特性であるエッジワークの良さを存分に生かした構成のステップ。
そのはずだった。
彗と出雲は違う。体つきもスケーターとしての成熟度もエッジの傾き方も身のこなしも何もかも。だからステップも多少は省略されている。彗のステップは密度があ
る。あれを完璧に真似するのは、シニアのトップスケーターでも困難だ。
それなのに、出雲の今の滑りが、彗に劣っているようには見えない。腕の使い方、滑りの一歩一歩が、目が離せなくなるほど綺麗で雰囲気がある。
毎日見ているはずの出雲が、違った生き物に見える。
十八変奏は出雲のために作られたのかと思われるような滑り。
休みなくスルスルと滑り、最後のジャンプは三回転ルッツ。綺麗に左足のアウトサイドエッジに乗って飛び上がる。
羽毛が宙を舞ったかのかと錯覚する。
「おお!」
ディレクターが感嘆の声を上げた。
膝を使って柔らかく着氷する。その足でキャメルスピンからの変形。ここからはオリジナルだ。T字でたっぷり回った後、体を変形させてレイバックスピン。そこから逆手でのキャッチフット。
戸惑いと共に。きらきらしい昔の思い出が頭をかすめてきた。初めてスケートリンクに入った時に感じた、未知の場所に足を踏み入れたような高揚。何故、出雲の演技を見て昔の興奮を思い出すのか。別の生き物を見ているような心地になっているからか。
フィニッシュまで手を抜かずに滑り切った。
滑り切った出雲が沙莉の横に戻ってくる。
出雲の演技をみて、はしゃいでいるのはテレビ局の人だけだった。周りの練習生は、特に驚いた様子もなく拍手を送っている。沙莉はよくできたねと出雲の頭を撫でている。さすがだよね、と誰かが言っている。……誰の、何がさすがだったのか、頭が混乱している。これが理恵ちゃんだったら納得できた。でも滑ったのは、体の弱い神原出雲だ。去年のノービスAは喘息が悪化して棄権した。珍しくはない。むしろ、今回もそうだよねと思ったものだ。
「君、凄いね。名前と学年を教えてください」
「神原出雲です。中学一年生です」
「いやー、こんな子が隠れていたなんて、さすが名門のリンクですね」
私は思いっきり戸惑っていた。伊藤さんにも、はい、まぁとか、適当な相槌しか打てないでいる。頭の裏側に、先程の出雲の動きが再生されていた。
出雲のバッジテストは何級だ? 日本では、国内外の大会に出場するために専門のテストを受ける。初めは一級、最高で八級とランクはあるが、級を取らなくてはならない。国際大会やシニアの全日本選手権に出場したいなら七級は必須。全日本ジュニアなら、六級。
あれ……? 七級、取れてたっけ? 六級を取れていたのは知っている。バッジテストに帯同したのは瀬尾先生で……。え、その前に。
なんで私、受け持っている生徒のことを何も知らないの?
「出雲くん、目標は何? やっぱり長澤先輩や堤先輩みたいに、オリンピック選手になること?」
それは目的のための過程の一つです、と出雲は答える。目的のための過程のひとつ、という中学一年生が、この世に何人いるだろうか。
「難しく答えるね。じゃあ、目的は何かな?」
「オリンピックで金メダルを獲ります」
硬直した私を置いて、リポーターが目を輝かせた。こういう話題に食いつくのがメディアだ。フィギュアスケートの金メダリストが、再び誕生するのを夢見ている。……が。
……今、出雲はなんといった?
全く躊躇いなく、オリンピックで金メダルを獲ると言わなかったか?
「それは凄いね。どう? できそう?」
「できそう、ではなく。そうします」
「頼もしいですね」
テレビ局の方々が目を輝かせた。
そこからようやく、伊藤さんは子供たちにインタビューをした。沙莉も理恵も篤人も、淀みなく答えた。伊藤さんは一人一人の話を丁寧に聞いた。
「このように、盛岡FSCでは、未来のオリンピック選手を盛んに育てています。ここからまた、新しい選手が生まれることを期待しています。神月先生、皆さんを大事に育ててくださいね。以上、中継でした」
このように、から先は、カメラに向かって伊藤さんが話した。
イレギュラーな場面があったが、テレビ局的には取材は大成功だった。貴重な映像が撮れたと満足した顔で帰っていくのを、私は半ば呆然とした心地で見送った。
「理恵ちゃん」
私は帰り支度をしている教え子に声をかけた。理恵ちゃんは中学の制服を着て、スケート靴をシューズバックの中に入れていた。中学が同じだからか、長年同じリンクにいるからか、出雲とはそれなりに仲良くしている。
「出雲ってあれだけ滑れたの?」
「え?」
理恵ちゃんが目を丸くさせた。
「いや、だってあんなに滑れたの知らなかったから……」
理恵ちゃんは私に対して引いた顔をした。うそ、と口が動いている。
「出雲だったらあれぐらいできて当然ですよ。知らないなんてありえない。……失礼します」
理恵ちゃんは一礼し、学生鞄とシューズバックを抱えて、私に背を向けた。顔には、私に対するわずかな軽蔑の色が混じっていた。
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