第五章 種蒔【2006年、神月美里】

第一話 私の人生とフィギュアスケート


 にわかにフィギュアスケート界が騒がしくなっている。例えるならば、珍しい花粉が舞い踊っているかのように突発的なものだ。

 どうしてだろうと考える暇もなく答えにたどり着いた。先日のトリノ五輪のフィギュアスケート競技で、日本人初の金メダリストが誕生したからだ。


 パラヴェーラのリンクは美しかった。そこで滑る彼女の姿も。


 彼女の金メダルから、日本では数年ぶりのフィギュアスケートブームが到来した。テレビをつければCMやバラエティ番組にスケーターが現れる。……昔の、指導者になった頃の自分に言っても、絶対に信じない自信がある。


 伊藤みどりがアルベールビル五輪で銀メダルを獲ったのは、もう、十四年も前だ。それからフィギュアスケート界は、世間からの激しくも一瞬で終わる注目と、世間から忘れられる長い沈黙を繰り返しながら進んでいった。

 自分はいつからフィギュア界にいるのだろうか。四歳の時、父に初めて連れていってもらった。横浜のデパートに併設された屋外のスケートリンク。観覧車や遊具が一緒に楽しめるスケートリンクは一瞬で私を虜にした。

 きらきらしい子供の頃の思い出。フィギュアスケートという競技について、私は何も知らずに、無邪気にずっと滑っていたいと父にせがんだものだ。

 ……あのリンクはもうない。高度経済成長の真っ最中に出来た屋外リンクなんて、今では数える程度しか残っていない。

 思えば遠いところまで来たものだ。


 二〇〇六年三月現在。


 盛岡スケートセンターを拠点に活動するフィギュアスケートクラブに、新しい生徒が二人増えた。二人とも女の子だ。喜ばしいのだが、いつまで彼女たちが続けられるかわからない。ブームがきて新しい生徒を迎え入れて、ブームが去ったらフィギュアを習いたい子供はぱったりと途絶える。今週きた生徒は「イナバウアー」と「トリプルアクセル」を無邪気に合言葉にしている。


 まるでそれがフィギュアスケートの全てだと言うように。

 なるべく長く続けばいいなと思いながら、私は私の日常に向かう。


 朝六時。外は暗い。屋内リンクは電気の力を使って手元を考えずにスーッと滑れる。一年前、照明を付け替えてから、洗い立てのシーツのような明るさに、私はやっと慣れてきた。

 観客席やリンクサイドで、生徒の親御さんが氷の上でウォームアップする我が子を見守っている。私の姿を見つけると、丁寧に挨拶をしてくれる。中には、うちの子はどうですか? 将来有望ですか? と聞いてくる熱心な親御さんもいる。

 みんな同じ。種が撒かれて、発芽を心待ちにしているところだ。

 私はエッジカバーを外して、リンクに降り立った。もうじき五十路に手が届くが、靴を履かずに教える気は無い。しかしそろそろ体もガタがきている。血圧は高いし、老眼も進んだ。氷の上で正確な実演ができる、若手の指導者を受け入れたい。


「おはようございます」

「おはようございまーす!」


 氷上でウォームアップしていた子供たちが、私を見つけて集まってくる。総勢で二十人。男の子が十人、女の子が十人。意外に男の子が多いのは、ここから排出された五輪選手に二人男子がいるからだろうか。


「はい、みんな練習しましょう。まずは八の字、それからひょうたんね」


 はーいと子供たちが高い声を揃えた。

 思い出は通り過ぎた。ここは氷上。つまり、私の日常。

 今日も私は、スケート選手になるかもしれない子供たちを相手にする。

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