第十六話 二人の本当のはじまり


 季節は春になり、二〇〇九年四月になった。


 一週間ほどカナダに行く。その間は神月先生に練習を見てもらってと伝えると、出雲は不安そうな顔を見せた。当然の反応だ。俺には彼を不安にさせた前科がある。


「大丈夫、すぐに帰ってくるから」


 出雲が塞ぎ込んでいる間に、俺はカナダにいる日本人ジャッジに連絡を取った。トロントで開催される最新のコーチング技術の研修会に参加をするのと、新採点法の勉強のためだ。盛岡に篭りっぱなしだとわからないこともある。インターネットで採点のガイドラインと格闘するよりも、ジャッジからの言葉が一番勉強になる。

 研修が始まる前日に、トロントのカフェで、ある人と待ち合わせた。四月半ばのトロントは、雪もすっかり溶けていた。うすら寒いが歩くにはちょうどいい。冬の間はご無沙汰なオープンスペースも、春を待ち侘びた人々の談笑の場になっていた。

 カフェの室外のテーブルに待ち合わせ人は座っていた。


「久しぶり。なかなか活躍しているようだね」

「……壮健そうで何よりです」


 君もね、と言ってその人は口角を上げた。

 待ち合わせ人は品のいいカナダ人紳士。ダニー・リー。

 ソルトレイクシティ五輪に俺を連れて行った名指導者だ。


「お話があってお呼び立てしました」


 コーヒーがテーブルについたところで、俺は話を切り出した。カナダに来た本当の目的は、コーチングの研修会ではなく別にある。


「今、俺が育てている生徒がいます。その子は、他の選手とはちょっと違います」

「違う、とはどういうことかな?」

「五輪の金メダリストになれる器だと思います」


 英語の腕が訛っていなくてよかったと心底思う。俺は必死に、出雲がどんな選手かダニーに説明した。才能がとてもある子だ。滑りに光がある。そして本人は五輪の金メダルを目指している。より腕のいい指導者に教えて貰えば、その夢に近づける。――だから、シニアに上がった後、あなたに預けてもいいでしょうかと。必死すぎて、コーヒーの味がわからなくなった。


「皆、教え子は可愛いものだ。私が教えずとも、君がその子をしっかり育てればいい」


 ダニーはあくまで穏やかに言った。声を荒げることがほとんどないカナダ人紳士は、出雲に興味を示していない。先日の世界ジュニアを会場で見ていた筈だ。アメリカのペア選手の帯同をしていたから。出雲を覚えているなら、こう思っているのかもしれない。

 脆弱そうな男の子だと。


 それでも、ここで引き下がれない。


「俺では駄目なんです。俺はまだ、指導者として未熟です。未熟な人間が指導して、五輪に行けたとしても、金メダルまでたどり着くとは思えない。俺はあの子のために自分ができることをしたい。だから……」


 改めて元師匠に頭を下げた。

 ダニーが所属しているトロントのクラブは、世界最高峰と断言してもいいぐらい練習環境が整っている。次のシーズンには、出雲は強化選手から特別強化選手に昇格する。後一年ジュニアで成績を残せば、海外を練習拠点にするための十分な費用を得られるはずだ。

 世界ジュニアが終わって二ヶ月。俺は出雲のために何をするべきか。

 考えに考えてたどり着いたのは、シニアに昇格した後、自分ではない、腕の立つ指導者に出雲を預けることだった。


「本当はどうなんだ? 君は。そこまで信じて、大事にしている生徒を、簡単に私に渡してしまってもいいのか?」


 テーブルを挟んで向かい合うダニーは、あくまで穏やかな口調で、俺の心の一番弱い部分を突いてきた。

 この結論に至るまで、決して簡単ではなかった。あの子のもっと成長を見ていられたら、どんなに楽しいだろうと思っていた。

 しかし俺個人の感情はあの子の成長の妨げになる。自分の感傷など切り捨てなくてはいけない。ダニーに預けるのが一番いいのだと本当に思う。


 それなのに俺は、答えられずに押し黙っている。

 気まずい沈黙が数分続いたのち、ダニーは手を上げて給仕を呼んだ。カプチーノ二つ、一つは砂糖入りでと伝える。


「……一つ、君に条件を出そう」


 ソーサーに付属された銀のスプーンの上に、角砂糖が置かれている。運ばれてきたカプチーノをスプーンでゆっくりとかき回しながら、ダニーが口を開いた。茶色い液体の中で、砂糖がゆっくりと溶けていく。


「三年以内の世界選手権で、彼を六位以内に入賞させなさい。そうしたら、私のところに移籍させても構わない。君が継続してみてもいいし、私に託してもいい。だけど私のところに来たら、あとは私がオリンピックチャンピオンにする」


 ダニーの提案に、俺は顔を上げた。

 ジュニアを経てシニアに昇格したのちに、一定の成績を上げろということだ。最低ラインは世界選手権六位入賞。指で数えてみる。タイムリミットは……二〇一二年の世界選手権か。ソチ五輪は二〇一四年。移籍するにも悪くはないタイミングだ。


「それは本当ですか?」

「ああ。約束する。だが、そのためには、この条件を飲んでもらう。それに、私のところにきても、急に結果はだせないだろう。……まずは君が、私に預ける前にできる限りのことをしなさい。君はまだまだ、その子を成長させられる」


 やるべきことをやりなさい。


 ……神月先生にせよ、ダニーにせよ。俺に難題しか与えない。俺にできるか、できないか? 頭の中で二つの単語が行き交いする。彼はまだジュニアだ。そもそも世界選手権に出場するのも、国内選考を勝ち進まなくてはならない。日本男子の層は決して浅くはない。

 だけど。


「わかりました。なら、俺がそれまでしっかり育てます。だから三年後には、出雲を……俺の教え子をよろしくお願いします」


 頭に浮かんだ二つの単語を蹴り飛ばし、もう一度ダニーに頭を下げた。

 できるかできないか、ではない。やるのだ。

 あの子が芽吹いて、豊かに蔓を伸ばす時のために。たくさんの水を与えておくのだ。



 ダニーと別れた後、俺はトロントの街中を歩いていた。

 盛岡に帰ったら、出雲に伝えなければ。あともう少し、俺と一緒に頑張ってくれないかというのと、最高の環境で練習できる足掛かりができたことを。

 勝手にそういう話をしたと言ったら、出雲は怒るだろうか。悲しむのだろうか。喜んでくれるだろうか。


 それでも俺は、あの子の為に出来ることをしたい。


 次こそは世界ジュニアの表彰台。シニアに上がったら四回転を覚えさせたい。サルコウか、トウループか。トウループの方がまずはいいだろう。昨季のショートプログラム「浜辺の歌」は、男子ではなかなかない個性になった。次のプログラムの方向性はどうしようか。競技用の曲の相談もしていきたい。

 柔らかい日差しを受けて、桃色の花びらが降ってくる。トロントにも桜はあるのだ。青い空の中で、満開の花がはらはらと散っていく。


 ……あの子の今後について心躍らせながら、ああそうだ、と俺の頭に一つの考えがふっと浮かんだ。スケートではない、俺自身の今後について。


 会ってみるのもいいかもしれない。神月先生の旦那さんが紹介する相手に。留佳のいう通り、もしかするといい人かもしれないから。


 未来はきっと明るい。真っ直ぐに光の道が伸びている。光を浴びたら、たっぷりと水気を含んだ芽が生まれるだろう。

 そう思わせる爽快な風が、桜の花びらを乗せていった。


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