第十五話 これまでと、これから

 俺が留佳と初めて会ったのは、小学校三年生の時だった。


「ここで一番上手なのはあなた? じゃあ、私と勝負しよう!」


 スケートクラブの一日体験でやってきた彼女は、出会うなり俺に名指しで勝負を挑んできた。リンクを二周してどっちが速いかの競争だ。負けた方がジュースを奢るという、思い返してもしょうもない勝負だ。

 俺は三歳でスケートを初めて、この時には五年目に入っている。初めてもいない二歳年下の女の子に負けるはずがない。俺は平常よりスピードを緩めて、「いい勝負」になろうと心がけて滑った。そんな俺の傲慢な気遣いが、留佳は気に食わなかったようだ。


「今、手を抜いたでしょ?」

「抜いてないよ」

「嘘、そんなに遅いはずない! 私が女の子だからって手を抜かないでよ!」


 もう一度やってとせがむ留佳に、今度は手を抜かなかった。十秒近く差を開いてゴールすると、留佳は悔しそうに、そして楽しそうに唇を歪ませた。次は負けないと思っていたようだった。俺は勝負に負けたのは自分だからという留佳の手を押しのけて、自分の小銭いれから百円を取り出して自動販売機に入れた。最初に手を抜いたのは俺だから、これでイーブンだ。申し訳なさと嬉しさが同居した不思議な笑顔を見せながら、両手で美味しそうにコーンポタージュを飲んだ。

 なんのてらいもなく可愛いなと思った。ホットの缶で温められた指先とか、さらさらの髪の毛とか、真っ直ぐに滑る姿とか、照れながらありがとうという声とか。

 翌日に留佳は正式にスケートクラブに入った。毎日一緒に滑り、競争し、次はどっちが難しいジャンプを覚えるか、どっちのスピンのポジションが綺麗かを競うようになった。一番近しい友人だったように思う。

 氷の上では生意気だったが、氷から一歩降りると普通のどこにでもいる女の子だった。美味しいものが大好きで、勉強は得意で、運動神経は抜群にいい。クラスメイトと普通に談笑し、当時流行っていた「美少女戦士セーラームーン」に夢中だった。


 それから数年、兄妹のように氷の上で過ごし、リレハンメル五輪が終わった一九九四年四月に、マサ――つつみまさちかが釧路からやってきた。


 マサは、ここにいる誰よりも、明確な意思を持って滑っていた。自分は世界の舞台で戦うという目標である。小学六年生で完璧に三回転ルッツを飛ぶ姿は、雄大すぎて鳥のようだと思ったものだ。


 留佳がマサを特別視するまで、時間は掛からなかった。帰り道で自転車を押しながら、私は昌親が好きなんだと言った留佳の頬の赤さを今でも覚えている。


 俺にとってもマサは可愛い後輩で、友人だ。だけど同時に複雑でもあった。留佳のことももちろんある。だけどそれ以上に、マサは俺よりも遥かに才能に恵まれ、尚且つ人に恵まれ、なんの躊躇いもなく自分の道を歩いていける。眩しすぎて残酷だった。


 誰もが光の道を歩けるわけじゃないから。


 中学二年生の時、留佳と昌親の道が真っ二つに分かれた。二次性徴が始まって思うように滑れなくなった留佳と、トリプルアクセルまで習得して世界ジュニアの二位まで上り詰めたマサ。彼はそのまま、翌年の長野五輪に中学生三年生で出場した。十五歳ながら、世界の舞台で堂々と演技をするマサは、可愛い後輩でも友人でもない。堤昌親という名前の、立派なアスリートだった。


「どうして私は男の子じゃないんだろう。男の子だったら、昌親に置いていかれずに済んだのに」


 食べたものを全て吐き、泣きながら練習する留佳が痛ましかった。

 高校卒業と同時に俺がカナダに行ったのは、マサとは違う方法でスケーターとして強くなりたかったからだ。強くなれば留佳を守れる。泣かせたり悲しませたりしない。

 だが。


 ……事務室で昔を思い出しながらB5のノートにメモを書き込んでいると、神月先生がやってきた。


「浮かない顔をしているわね」

「ゾンビより人間味はあるので、ゾンビに例えないでください」

「なんだ、残念」


 恩師は本当に残念そうな顔をした。


「少し考えていました。昔のこととこれからと……自分についてです」


 これからも出雲を指導する気はある。まずは来季。高校生になるが、もう一年はジュニアでやっていきたいだろう。そしてシニアに上がったあと。四年後はソチ五輪が控えている。目指すべきなのはここだ。


 そのためには、俺は何をするべきか。


 事務室のガラス扉からは少しだけリンクの様子が見える。銀盤を滑る教え子と、それを見守る女性を眺めながら、小さくつぶやいた。


「先生。俺、ずっと留佳が好きだったんですよ」


「何、それ。今更? とっくに知っているわよ」


 知っていたのか、と突っ込む気にはなれなかった。マサにもバレていたし、きっと留佳にも気付かれている。


「でも俺は、留佳が好きだっていう自分の気持ちより、出雲の夢の方が大事です」


 もう少し詳しくいえば、留佳よりも出雲の方が大事だと気がついた。

 出雲が扉を開いた瞬間、彼女が好きだったのが過去になった。久しぶりに教え子の顔を見て、心の底から安心したのだ。瞳に光が戻っていた。また、この子は立ち向かっていける。その力を再び与えたのは、留佳だ。

 それに、今まで気持ちだけ抱えて何も動かなかったのは俺自身だ。留佳の瞳は未来に向いている。マサが心にいるわけではなかった。

 結局過去に拘っていたのは、俺だけだったと思い知らされた。


「白状するとね、私が一番出雲を信じていなかったのよ」


 思いがけない告白に、俺は神月先生の顔をまじまじと見返した。恩師は苦笑いを浮かべながら続ける。


「あなたには自業自得と言ったけど、出雲の指導に身が入らなかった時のあなたは私に似ていた。私はあの子が選手になれるなんて、全く想像していなかったから。本当に、今季はよくやってきたわね」


「……指導者には向いていないかもしれませんけどね」


 市川監督からは、あなたは甘すぎる、この程度で狼狽えるなと叱咤された。演技前や落ち込む教え子に、適切な言葉を掛けられない。先生は俺の言葉を一笑した。


「今決める段階じゃないでしょ。あなたは指導者になって二年なんだから。それに指導者も本当に人それぞれ。関係の築き方もね。教え子はクライアントでギャラを貰えればいいって割り切る人もいれば、父子の関係のように寄り添って人生を共有したいと思う人もいる。あなたはきっと後者。やりやすいのは前者だけど、後者の方が私は好き。私はあなたが向いていないとは思わない」


 今年から書き始めたノートには、ページ部分が茶色く変色していた。一冊は終わり、二冊目の真ん中ぐらいに到達している。


「でもね、これだけは言っておくわ。あなたは誰かのために動けるし、我慢強い。教え子を大事にできる。とても誇らしいけれど、たまには自分のために行動してもいいのよ。例えば、自分の幸せとかね。……いい加減、私も夫の上司からせかされているのよ。会ってあげなさい」


 そう言って、神月先生は事務室を出て行った。

 リンクは今貸切だ。出雲が一人で滑っている。傍には留佳がいる。リンクサイドで見守っているようだ。

 一週間ぶりに滑りたいと言って、今日の朝、出雲が夜の八時から貸切を入れた。何を話しているかわからないが、二人の楽しそうな声が聞こえてくる。

 やがて一つの曲が流れてきた。ヴァイオリンが伸びやかに歌い、ピアノが歌を装飾していく。


 最初で最後のシーズンに、留佳がショートで滑った曲。一度だけ完璧に滑れた一九九六年の東北ブロックでの演技が思い起こされた。フリップからの三回転+二回転。満開の桜が勢いよく散るようなレイバックスピン。気まぐれな猫がワルツを踊っているような演技。そういえば東北ブロックの会場は盛岡スケートセンターだった。東北ブロックは九月の終わり。出雲も覚えているのだろうか。確か、この年の九月にクラブに入ったはずだ。……二歳ぐらいだったから、きっと知らないだろう。


 あのプログラムは本当に綺麗だった。

 カミーユ・サン=サーンス作曲「序奏とロンド・カプリチオーソ」だった。


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