第十四話 タッチング・ディスタンス(壁越しに触れる)


 現地の病院で二、三日お世話になった後、帰国の途についた。


 盛岡に帰って、まず神月先生に報告した。ソフィアに入ってからフリーに至るまで。神月先生はCS放送を見て、顔色だけで発作に気がついていたようだ。長い話を聞き終えて、先生は「お疲れ様」とねぎらいをかけてくれた。

 一緒に練習しているリンクメイトは残念だったねと、十一位でもすごいと賞賛してくれた。子供たちには、もちろん体調不良になったのは教えなかった。

 確かに頑張った。転倒しようが、ジャンプが抜けようが、あの状態でフリーを滑り切れたのは立派だった。二枠は取れなかったが、市川監督も「よく頑張った」と言っていた。


 今でも出雲は自分の体を呪いたくなっているのだろうか。

 盛岡に帰ってから、あの子は練習に来なくなった。


 出雲が練習に来ないからといって、森岡スケートセンターでの俺の仕事がないわけではない。ノービススケーターのコンパルソリーの指導。所属しているスケーターの個人練習の指導。物足りなさを抱えながら、出雲が戻ってくるのを待った。

 滑りたくなったらいつでもおいで。そうメールをした。それでも返信もなくリンクにも来なかったから、一度家まで行った。

 盛岡市内のマンションの五階が出雲の家だ。インターホンを押す指が震えた。玄関が開かれて、応じたのはお母さんだった。


「長澤先生……」


 お母さんが俺に会釈をする。黒髪で色白の、細身で綺麗な方だ。出雲とは血のつながりがよくわかる。しかし顔が異常に綺麗なだけで、息子の身を案じるどこにでもいる普通のお母さんだ。


「先日は大会の帯同をしてくださって、ありがとうございました。私たちが行けないもので、先生に頼り切ってしまって」


 お父さんは市役所に勤める地方公務員だ。出雲のスケート費用は、お母さんのパートでやりくりしていた。今年強化選手になって、スケート連盟からの支援も増えて少しだけ楽になったと、前にあった時にお母さんは喜んでいた。

 俺の家も決して裕福な方ではない。母方の祖父からの支援がなければやっていけなかった。一般家庭でスケートの費用を捻出するのがどれだけ大変か、嫌というほど知っている。家族の協力と莫大な資金がないと、競技生活すら成立しない。それでも頂を目指せるのはほんの一握りだ。


「出雲はどうしていますか?」

「……すみません。実は帰ってから部屋から出ていなくて。誰とも会いたくないみたいです。食事もろくに摂っていなくて」

「……そうですか」


 食事は部屋の前に置いて、ほぼ手付かずのまま三回変えているらしい。帰ってからと言うと、もう一週間も外に出ていないことになる。

 胸が詰まった。


「滑りたくなったら来てください。いつでも待っています。そう、出雲に伝えてください」

「あの、先生」


 帰ろうとする俺を、お母さんが呼び止めた。


「私、去年の四月ごろに神月先生に指導者を戻してくださいと言いましたけど、ここ数ヶ月のあの子が本当に楽しそうで。よく家で長澤先生の話をするんです。あの時こう教えてくれた、とか。夏バテしていたら甘酒をくれたとか。こういう良いことを言ってくれたとか。そういう他愛もない話なんですけど。だから……その……。すみませんでした」

「謝らないでください。あの時は本当に俺が悪かったんです。俺も、出雲の指導に関われて本当に……」


 楽しかったのだ。

 この一年、あの子がスケーターとして成長していくのが、嬉しくて、楽しくてたまらなかった。


 それなのに競技が始まったら、四分間、俺は見守ることしかできない。いい演技ができますようにと祈りながら、これ以上怪我をしませんようにと願いながら、顔が真っ白の選手をたった一人で銀盤に送り出す。いつだって万全な状態で滑れるわけじゃない。そんなことわかりきっているのに、どうしようもなく歯痒い。


「……すみません。俺がしっかりしていれば、あんなことにはならなかったんです。本当に、申し訳ないです」


 神月先生だけではなく、御両親には全てを話してあった。息子を預かる以上、俺には報告の義務がある。謝罪をした俺に、御両親はお世話になりましたと言っただけだった。

 俺は今一度、お母さんに向けてしっかりと頭を下げた。本当に責められるべきなのは俺だ。棄権させられなかったことではなく、対策を怠ったことに対してだ。


「本当に不甲斐ないのは私です。言ってはいけないって思っていても、たまに考えてしまうんです。……私がもっと、体が強い子に産んでいれば、あの子を余計に傷つけずに済んだのに」


 出雲のお母さんは口に手を押さえて泣き出した。


 言ってはいけないと思っていても、たまに自分の体を呪いたくなる。

 言ってはいけないと思っていても、体が強い子に生んでいれば。


 もう一度頭を下げて、俺は神原家に背を向けた。これ以上出雲のお母さんに合わせる顔がなかった。



 盛岡スケートセンターに戻った俺を出迎えたのは神月先生だった。事務室で、留佳と一緒に書類仕事をしている。俺の顔を見るなり、神月先生は心配そうに訊ねてきた。


「……出雲はどうだった?」

「部屋から出てきません。……あいつ、自分の体を呪いたくなるって言っていました。今でもそう思っているのかもしれません」


 神月先生が痛ましそうに顔を歪めた。

 もう少し放っておいた方がいいのだろうか。だけどもう、一週間も外に出てきていないのだ。これ以上一人にしておいたら、ネガティブなイメージがどんどん付いてしまう。

 このまま立ち直れなくなったりして欲しくはない。あの子には、もっと光り輝く道を歩いてほしい。

 ダメもとでもう一度メールをしようとした。


「……明日、私が行ってみていいかな?」


 携帯電話のボタンを打つ手が止まった。

 俺と神月先生は、そう言った留佳の顔を静かに見返した。


「私が話しかけてみる。それでダメなら……また何か考えよう」


 *


 翌日の夕方、勤務が終わった留佳を乗せて神原家に向かった。留佳を車に乗せるのは、秋に一緒に食事をして以来だった。互いに言葉が少なかった。転職活動は二転三転したが、彼女は次の四月から職場が別になる。新しい職場は、市内にあるスポーツショップだ。俺が出雲の指導に忙しかったころ、留佳は新天地を見つけていた。


「引き継ぎで忙しい時に、悪いな」


 大丈夫、と首を振った。


「先輩にとってだけじゃなくて、私にとってもあの子は大事な子だから」


 留佳と出雲がそれなりに仲がいいのは知っている。練習の合間に談笑している姿をよく見かけた。だけど、大事な子というのが引っかかる。

 どういう意味だと聞こうとして、俺はブレーキを踏んだ。ハンドルを切るうちに、神原家のあるマンションにたどり着いていた。

 インターホンを押すと、先日と変わらずに出雲のお母さんが出てきた。俺と留佳の顔を交互に見比べる。


「長澤先生と、あなたはスケートリンクの……」

「崎山留佳と申します。いつもお世話になっております。……出雲くんとお話しできますか?」


 お母さんも藁にも縋る思いだったのだろう。俺と、あまり面識のない留佳を家の中に入れた。

 出雲の部屋の前には手付かずの食事が置いてあった。留佳はそれを見て、唇を引き結んだ。彼女は右手で部屋をノックして、毅然とした声で俺の教え子を呼んだ。


「留佳です。……出雲。いま、話できる?」


 ややあって、耳を済まさないとわからない程度の声が、部屋の奥から確かに聞こえた。すみません、帰ってください。今は誰とも話す気になれないんです。


「私は帰らない」


 留佳は引き下がらなかった。


「ねえ、出雲。覚えてる? 私が一番辛かった時、スケートに対する情熱も、スケーターとしての自分の未来も、全部なくなっちゃったの。私はあの時、自分の体を呪いたくなった。お母さんはなんで私を男の子に産んでくれなかったんだろうって。もしかしたら、あの時の私と同じことを考えているんじゃないかって」


 留佳の右手には吐きダコが生々しく残っている。肋が見えるほど痩せほそって、骨粗鬆症手前になった後輩の姿を、俺は今でも覚えている。長野五輪終了後、留佳はスケートを辞めた。摂食障害に加えて、練習中に足首を骨折したからだ。古傷が痛む時が今でもあるという。――あなたはこうなってもしょうがないんだよって神様に言われた気がしたと、空虚な声で語っていた。


 俺は、そんな留佳を守りたかった。


 生意気で、快活で、感情豊かな。ずっと好きだった女の子。


「今のあなたの辛さは、私にはわからない。でも、私が辛い時、あなたは隣にいてくれた。だから、私はここから動かない」


 留佳は出雲の部屋の前で体育座りをした。扉にぴったりと背中をくっつける。

 この二人の間に、どんな絆があるかは俺にはわからない。はっきりしているのは、俺が守りたかった女の子は、俺の教え子を支えようとしている。

 俺が立ち入れない何かがある。

 時間だけが過ぎていった。時折、腕時計で時間を確認した。三十分過ぎ、一時間過ぎ、二時間過ぎたところで……。


 天岩戸が開いた。


 誰も立ち入れなかった場所に、留佳は一歩を踏み込んだ。俺がずっと向けてほしいと思っていた綺麗な顔を、出雲に向けていた。

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