第十三話 その涙は雪になって消えた


 丁寧に、これ以上悪化させないように体を温めていたら、最終グループの六分間練習の時間になった。喘鳴は落ち着いてきたが、肩で息をしている。氷上に六人が滑り始めると、出雲の動きだけ明らかに鈍かった。水飲みにやってくるたびに、透明な痰と黄色い痰を交互に吐いた。

 こういう時、本当は何を言えばいいのだろうか。神月先生だったら、マサだったら、もう少し気の利いた言葉が言えるのかもしれない。勇気づけるか、或いは、本人の意思をねじ伏せて本当に棄権させていたか。

 だけど俺は二人じゃない。神月先生のような経験もなければ、マサみたいな抱擁力もない。中途半端で、教え子一人守りきれない。そんな未熟な人間だ。


「先生、そんな顔、ないでください。俺が勝手に決めたんですから。それに、だってこれは、ゲームでしょう?」


 ……そうだよ、これはゲームなんだ。だから、今回も、頑張ればまた夢に近づける。そう軽口を言うべきなのかもしれない。「ライフ・イズ・ビューティフル」で、言葉一つで息子を守った父親のように。数ヶ月前の俺の言葉を、出雲は大事に抱えていた。

 それなのに、見えない塊が喉に圧をかけて音にならなかった。

 これ以上、出雲に情けない顔は見せられない。俺は出雲の頭を抱いて、口早に伝えた。


「……無事に戻ってきなさい」


 名前がコールされる。

 見てはいられない。だけど、見なくてはいけない。自分の体と取って変われたらどんなにいいだろう。演技が始まったら俺は何もできない。

 ただ祈ることしかできない。


 演技が終わった後、すぐ病院に向かった。病院に直行できるよう、市川監督がタクシーを手配してくれていたのだ。

 当然だが、滑っているうちにだんだんと症状が重くなっていった。キス&クライではなんとか座れたが、結果を見届けて廊下に戻ると、膝から崩れ落ちた。


「こんな状態で運動させるなんて、君の上司は一体何を考えているんだ」


 連れて行った病院で、医者は激怒しながら診察した。この数日で、風邪の患者が増えたらしい。原因はやはり、豪雪による気温の低下だ。


「この子もよそから風邪をもらったんだろう。喘息の発作は風邪からくる時もあるから。しかし、危なかったね」


 後一歩で顔面にチアノーゼを起こすところだったと医者は診断した。ステロイドを処方され、横になったまま大型の吸入器を吸わせてようやく呼吸が落ち着いた。

 寝顔を眺めていたら、フリーの演技が頭に蘇ってきた。トリプルアクセルと後半のフリップは転倒。ルッツはステップアウト。顔色は悪くて全体的に動きに覇気がない。火の鳥の音楽が重くのし掛かり、表情にいるのは幻の鳥ではなかった。それでも最後まで滑り切れたのは本当に奇跡だ。

 傍の椅子に座ったまま、俺は一睡もできなかった。あの演技一つで、出雲を判断する人もいるだろう。何も知らない人間から見れば、脆弱な男の子が必死に滑っているだけだ。こんな選手を代表に選ぶなんてどうかしていると嘲笑する人もいるかもしれない。


 そうではないと声を大にして叫びたかった。

 あの子がどんなにいい滑りをするか、何も知らない人間に切り捨てられたくなかった。


 出雲はきっと、滑ったことを後悔はしていない。だから俺は、止められなかったと嘆くべきではない。わかっていてもどうしても考えてしまう。

 あの時きちんと止められていたら。無事に帰ってきなさいじゃなくて、無理しないでくれと言えていたら。

 市川監督が様子を見に来たのは、男子シングルのフリーの翌日の朝だった。

 今日は女子シングルのフリーと、アイスダンスのフリーダンスの日だ。他の選手のケアもあるのに、わざわざ見に来たということは、今回の判断について思うところがあるのだろうか。


「……タクシーの手配、ありがとうございました」

「それぐらい当然よ。私が背中を押したんだから。あなたも結果を気にする余裕なんてないだろうから、結果だけ伝えにきたの」


 この人は声を荒げることもなければ、表情を崩さない。淡々と男子フリーの結果を

伝えた。……上出来というほど上出来だった。


「もう一度言うけれど、あなたは正しい。でも、私も間違った判断はしていない。一枠のままだけどね。あなたも必要以上に嘆くのはやめなさい。あの子に対する冒涜になるから」


 市川監督は出雲の顔をしっかりと見やった。熱が下がりきっていないため、額に氷嚢を当てている。監督は、正しさではなく間違っていないと主張する。出場できる体調かどうかを冷静に見極めた姿に、今まで選手を送り込んできた強さを垣間見た。


「私はもう行くわ。長澤くんも少しは休みなさい。出雲が起きた時、あなたがそんな顔だとあの子に気を使わせるわ」


 窓の外のソフィアの街は、雪に埋もれながらも久方ぶりの陽の光を浴びていた。ガラス窓にうっすら映った自分の顔は、確かにひどいものだった。俺にもっとしっかりしろと遠まわしに言って、市川監督は病室から出て行った。

 出雲が目を覚ましたのは昼時だった。


「……先生」


 出雲は焦点の合わない瞳で俺を見上げた。肘をついて起きあがろうとする教え子を、俺は腕で押し留めた。少し体を動かしただけで息が上がっている。横になっていた方が楽そうだ。


「フリーは……。結果はどうなりましたか?」

 出雲は、自分の体よりも結果を気にしていた。こんな時ぐらい自分を労ってもいいのに。俺は市川監督から教えられた結果を、そのまま出雲に伝えた。


「シーズン最初に先生と決めた目標に、全然届きませんでした。本当に、こんな時に……」

「今、そんな事話している場合じゃないだろ。とにかく、体の回復だけを今は考えていろ。……よくやったよ、お前は」


 喘息の発作を起こしながら懸命に演技した。そんな事実を、感動的な美談にされたくはない。それでもよくやった以外、もう言えなかった。市川監督の言葉はもっともだ。これ以上俺が自分を責めるのは、滑り切った出雲に対する冒涜だ。


「出雲?」


 天井を見上げる出雲の瞳が、多量の水を溜めていた。


「俺、フリー滑ったこと、少しも後悔はしていません。ぼろぼろだったけど、できる限りのことはやったつもりです。だけど……」

「……だけど?」


 胸を抑えて空咳をする。


「言ってはいけないってわかってます。でも、たまに自分の体を呪いたくなるんです。どうして俺の体はこんなに弱いんだろう……」


 出雲は手の甲で目元を覆った。隠した瞼から、透明な液体がいくつも流れた。

 心臓に穴が空いた音を立てながら吐露した。体も心も、全てが弱り切った教え子を見るのは初めてだった。本当によくやった。泣く必要なんて何もない。これも一つの経験だ。次、こうならないように頑張っていけばいい。


 ……どんな言葉も、今の出雲にはなんの慰めにもならない。

 氷嚢ひょうのうが温くなっていた。俺は黙ってナースコールを押した。目が覚めたら呼ぶように医者に指示されていた。


 ショートプログラムは五位。フリースケーティングは十六位。

 総合成績十一位だった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る