第十二話 私はあなたの親じゃない


 夜中に携帯は鳴らなかったので、普通に眠れたのだと俺は解釈した。逆に俺が、目が覚めては浅い眠りを繰り返した。神経が張ってしまっていて休めた気がしなかった。

 食事の細さと、呼吸がしづらいというのが引っかかっている。しかし熱もなければ、痰(たん)も出ていない。それに昨日の朝の顔の白さ。本当に発作はなかったのか? ショートが滑り切れたのはいい。だけど次はフリー。演技時間が一分以上長くなる。

 無事に終わって欲しい。それなのに、どうも嫌な手触りが手のひらに残ってしまっていた。

 豪雪音を聞きながら寝返りを打つうちに、携帯電話のアラームが鳴った。


「どうしたんですか?」


 今度は俺が目にくまを作ってしまったので、教え子から心配された。演技をするのは俺ではないのに、俺が眠れなくなっているのは変な話だ。

 昨日と同じぐらい顔色はよくなかったが、出雲は、心配していた俺が拍子抜けするほど普通だった。


 男子シングルのフリーは、夜の六時からスタートになる。午前の公式練習を終えて、一旦ホテルに戻った。最終グループの出番は八時半だ。

 雪の勢いがさらに増していった夜の六時半、会場入りした後のことだった。

 ホテルから会場までは、大会が運営しているバスで十五分ほどかかる。雪道だがバスの運転手は慣れたもので、淀みなくハンドルを操作していた。バスから降りると、冷たい空気が容赦なく肺に入り込んだ。今が一番寒いかもしれない。

 ジャージ姿で軽くウォームアップしていた時だった。

 廊下をランニングしていた出雲が、胸に手を当ててずるずると崩れ落ちていった。


「出雲」


 慌てて駆け寄って確認する。肩で息をして、隙間風のような喘鳴が教え子の喉から生まれてくる。……全身の血の気が引いていくのがわかった。


「おい、しっかりしろ! 話せるか?」


 頷こうとする仕草は伝わってきた。

 原因を考えるのは時間の無駄だった。この状態になって、俺はどうするべきかを必死で考えた。ペットボトルの水を渡して飲ませる。このタイミングで薬を飲むのはまずい。

 この雪と、この気温か。盛岡と似ていると俺が感じていても、出雲の体は敏感に南東欧との違いを感じ取っていたのか。本人がわからないレベルで。食が細かったのも、呼吸がしづらかったのもそれが原因か。対策をしているようで、実際には何もしなかった自分に後悔した。


「……すみません。大丈夫、です」


 途切れ途切れに出雲が言葉を繋げる。


「しゃべるな。とにかく座れ」


 顔色が紙よりも白い。水を飲んでも、全く良くなる気配はなかった。額に手を当ててみる。……嘘だろおい。


「棄権を伝えてくる。いいな?」


 出雲は首を横に振って、俺の行動を静止した。まさか。


「出ます。俺が出ないと来季の枠が一つのままだから」


 ――そんなこと、させられるわけがない。


「枠なんてどうでもいいだろ! 俺はお前が大事だから、こんな状態で滑らせるわけにはいかないんだよ!」

「どうでもよくなんか、ありません!」


 叫んだ直後、教え子は激しく咳をする。周りの選手の視線を感じる。

 日本語の騒ぎを聞きつけたのか。他の選手と関係者の合間を縫って、市川監督が靴を鳴らしながらやってきた。


「状況を説明して」


 昨日の会話から話した。ソフィアに入ってから呼吸がしづらかったこと。ドーピングに引っかからない飲み薬は服用していたこと。……会場に入り、ウォームアップをしていた今、喘息の発作が起こったこと。風邪も併発させたようで、それなりに体温が上がっていること。

 市川監督は、壁に寄りかかって喘鳴と肩呼吸を繰り返す出雲の顔に手を添えた。親指で目の色を確認し、額に手を当てる。


「チアノーゼは出ていない。喘鳴ははっきり聞こえる。会話は可能。肩で呼吸をする。熱はあるわね。脈は……ちょっと弱いけど許容範囲」


 一つ一つの症状を、市川監督が言語化していく。


「立てる?」


 咳き込みながら、なんとか、と出雲は答えた。言葉通り、全身を震わせながら立ち上がった。見ていられなかった。今すぐ病院に連れて行きたい衝動を抑えて、監督に進言する。


「市川監督。申し訳ないんですが、棄権させてください」

「先生、お願いです。今日のために、このシーズン、頑張ってきたんです。ここで、やめたくないです」

「長澤くん、あなたは黙っていなさい。……出雲」


 俺の言葉を無視して、市川監督は出雲に向き合った。


「出るのも出ないのもあなたの自由。出なくても、私も長澤くんも責めない。誰にも責めさせない。長澤くんの言葉は正しい。私が親だったら、問答無用でやめさせる。だけど、私はあなたの親ではなくて、スケート連盟の監督。あなたが滑るのが仕事なら、選手に滑りなさいって言うのが私の仕事。それにいつだって誰かが心配して守ってくれるわけじゃない。それはわかっているわね」


 有無を言わせない冷静な口調だった。


「はい」

「いい返事ね。じゃあどうする? 出る? 出ない?」

「出ます」

「わかった。じゃあ、着替えて準備をしなさい」

「監督!」


 一連の会話を見守っていた俺は、監督に向けて抗議の声を上げた。正気なのか、この人は。本当にこんな状態で、出場させるつもりなのか。

 監督は俺の抗議を冷ややかな目線で受け流した。


「責任は私が取る。だから、この程度で狼狽えないで。これは出雲が乗り越えないといけない。長澤くんも、その都度守ることだけを考えてはだめ。あなたは甘すぎる」


 市川監督は会話を打ち切って関係者席に戻っていった。長年選手を競技に送り出した女帝の決断は、今の俺にはあまりにも理不尽に感じられた。この程度と切り捨てていいはずがない。立つのもやっとな選手を送り出すのが普通だとは思えない。

 拳を握って市川監督の背中を睨みつける。

 ……俺は甘すぎるのだろうか。

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