第十一話 天国まであと少し

 二〇〇九年世界ジュニアフィギュアスケート選手権。

 男子シングルの出場は四十一人。そのうち、二十四人が翌日のフリーに進む。

 ショートの日の朝、出雲は目元に濃いくまを残して、滞在先のホテルの食堂に降りてきた。喘息の発作が出たか確認すると、ただ単に緊張して眠れなかったと言った。


「本当に?」


 怪我や病気を隠されるのは俺としても困るので、念を押して聞いた。


「大丈夫です」


 にっこりと笑って出雲は会話を打ち切った。

 男子のショートは、第一グループから第三グループまでを午前中に実施し、午後二時から、第四グループから最終グループまでを行う。出雲は第四グループ四番滑走。朝軽く練習したら、そのあとは時間まで寝ているよう促した。顔色が悪いのも気になった。

 ショートはトリプルアクセルを決めて滞りなく終わり、五位でフリーを迎えることになった。ミスらしいミスはなく、全日本ジュニアや全日本よりもいい出来だった。

 ……出雲がノーミスで滑っても、上には上がいる。

 演技構成点にはそれが顕著に現れた。ジュニアのトップ選手だと、演技構成点五項目で七点台や六点台の選手が何人かいた。演技構成点を確認すると、スケーティングスキルと音楽の解釈だけ六点台がついて、あとは五点台だった。

 出雲本人としては、出来と点数には満足もしているし納得もしている。最終グループに残れたのが一番の収穫だ。ただ純粋に、トップの選手と点が離れているのが悔しいらしい。目標は表彰台としているだけに、ノーミスながら厳しいスタートになった。

 それでも表彰台は決して遠くはない。


「フリー次第でどうにでもなる。いつものように全力を尽くそう」


 演技終わりにそう励ました。前向きに行けるように切り替えないといけない。

 フリーは最終組二番滑走と出番が早い。


「悪くはなかったわ。フリーも期待している」


 市川監督は関係者席で出雲の演技を観戦していた。ショートの演技は女帝のお眼鏡にかなったようだ。彼女としては、自分が選んだ選手の出来が良くて胸を撫で下ろしているところだろう。

 翌日の滑走順を決めるくじ引きも終わって会場を出ると、雪がちらついていた。俺も指先でカイロを擦り、厳重にマフラーを巻いて滞在先のホテルに戻った。


 夕方に降り始めた雪は、夜になると豪雪になっていた。

 盛岡の冬は、乾燥している上にだいぶ冷え込む。岩手県の日本海側と比べて降雪量は少ない方だが、降らないわけではない。降る時は大量に降る。俺や出雲にとって、雪景色は珍しいものではなかった。

 ホテルのビッフェは日本と出てくるものがあまり変わらない。パンにソーセージやサラダといったものに、乳製品を豊富に使ったブルガリア料理が並んでいるぐらいだ。

 向き合う教え子は、あまり食が進んでいないようだった。持ってきたものもほとんど手をつけず、飲むタイプのヨーグルトと紅茶ばっかり飲んでいる。ホテルの食事が合わないのだろうか。


「食えないのか?」

「なんとなく食欲がなくて。……ソフィアにきてから呼吸がしづらいんですよ」

「呼吸がしづらい?」


 同じ南東欧のクロアチア大会ではなかったことだが、気のせいとは言い切れない。

 日常的に服薬している喘息の飲み薬は、医者からドーピングに引っかからないものを処方してもらっている。額に手を当ててみると平熱だった。


「咳は?」

「今のところは大丈夫です」

「呼吸がしづらいだけで、他は安定しているのか?」

「そんな感じです」


 ソフィアは盛岡よりも標高が高い。高地では喘息の発作が起きやすいが、今が安定している以上、薬をしっかり飲んで明日に備えて早めに寝るしかない。

 出雲が控えめにくしゃみをした。ソフィアに入ってから、随分と寒がっている。


「とりあえず食べよう。それで、薬飲んで温かくして寝なさい。夜やばそうだったら、携帯ですぐ呼んで。布団もしっかり被れよ。お前、たまに寝落ちして布団をかぶっていない時があるからな」

「……子供じゃないんですけど」


 俺にこう言われるのは、出雲にとって悪くはないらしい。不満そうだが、顔は笑っていた。ビッフェで新しいものを取りに席を立つ。

 最後まで食事は細く、スズメの餌程度にしか口にしていなかった。


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