第十話 決戦前夜のソフィア


 初めて降り立ったソフィアの街は、どんよりとした鰯雲が広がっていた。

 二月下旬のブルガリア。


「寒い」


 隣を歩く教え子がずり落ちてきたマスクの位置を直した。ぶるっと体を震わせる。帽子を被り、マフラーも巻いた完全防備姿。南東欧もまだまだ冬だが、俺としては盛岡とそんなに変わらない寒さだと思っていた。


 歩きながら、俺は十一月下旬の全日本ジュニアから今日までの三ヶ月間を振り返った。


 全日本ジュニア選手権は、あのまま出雲が初優勝した。最終滑走の京本がトリプルアクセルを二本失敗したのだ。演技にムラがある選手だが、ここまで崩れたのは初めてだった。7点差をひっくり返したのを見た瞬間、驚きと喜びを足して二で割ったような声が、出雲の口から飛び出てきた。


 その後は一月末まで、怒涛の日々が続いた。

 まずは十二月下旬シニアの全日本に出場した。シニアの全日本には、全日本ジュニアの上位者は招待される。シニアの大会に出るということは、フリーの演技時間が三十秒長くなることと、実施要素が一つ増えることを指していた。

 全日本ジュニアの上位入賞と全日本の招待を見越していたので、神月先生には事前にシニア用の三十秒長い振り付けを考えてもらっていた。一ヶ月は全日本へ向けてシニア用のプログラムの練習を重ねた。ジュニアグランプリファイナルには出場できなかったが、こちらの練習に舵を切り替えられて返って良かったのかもしれない。

 全日本選手権は七位に入った。全日本では京本が六位だったため世界ジュニアの代表選考はもつれたが、最終的には全日本ジュニアの結果が考慮されて出雲が選出された。


「表彰台に届かない選手を選んではいない」


 選考発表の際、市川監督に呼び出されて言われた言葉がこれだ。監督はフィギュアスケートの強化部長を勤めている。彼女は最近の出雲の成長を、表彰台に立つ実力はついてきていると捉えてくれた。

 全日本ジュニアでの優勝は、出雲の知名度と注目度を一気に高めた。朝のローカルニュースで優勝が取り上げられた。「バンクーバー五輪の出場は難しいかもしれないが、次のソチ五輪では期待されている」と次世代のエース扱いされ、少しずつ取材が増えていた。

 何故だか俺も。


「今季急成長した神原選手ですが、長澤先生の指導に何か秘訣はありますか?」


 あったら俺が知りたい。盛岡までやってきた記者に、本人の努力ですと答える他なかった。

 それから地味に増えたのがアイスショーだった。全日本終了から一月末までの短い期間、日本はアイスショーのシーズンになる。国際大会の代表者がこぞって参加するショーが開催され、場数を踏ませるためにジュニアの選手も招待される。出演しなくてもいいとは言ったが、ギャラがでるので出雲は積極的に出演した。試合時の指導者の諸費用は、基本的には選手側が受け持つ。これで先生の分のソフィアまでの渡航費が出せたと笑った。


 中体には出るかと聞いたら、中学最後だから出たいと返答したので出場した。会場はビックハットだったので、全日本と同じだ。氷の質もわかっている。これは一月の末。


 残りの一ヶ月は盛岡で調整をした。課題はまだまだたくさんある。滑る時に少し猫背になる癖。フリップは五回中四回エッジエラーになる。

 それでもシーズン始まりよりも、体力も筋力もついたし、スケーティングも良くなってきた。シーズンが深まりトリプルアクセルが体に馴染んできているのが、練習でも見てとれた。全日本ではフリーで、中体ではショートでも決められた。

 やれることはやってきた。はっきりとそう言える気がしている。


「先生? どうしたんですか?」


 横で笑っている俺を不審に思ったらしい。出雲が不安そうな顔を向けていた。

 グランプリファイナルの出場は逃したものの、シーズン通して順調だった。

 この調子を維持していきたい。そう思って、ソフィアの街の石畳を歩いた。

 ――今シーズン最大の目標、世界ジュニア選手権が始まる。




「なかなか良さそうね」


 ショートプログラムの公式練習の様子を、市川監督が見学に来た。氷上では六名の選手が各々に滑っている。今はイタリアの選手の曲かけ中で、出雲は二つのステップの確認をしていた。

 世界ジュニアには、フィギュアスケート強化部長の市川監督も帯同していた。出雲の他に、女子シングルは二名、アイスダンスに一組、この大会に選手を派遣している。ジュニアの世界最高峰の大会に、各国からどんな選手が派遣されているか、監督としても気になるのだろう。


「全日本からトリプルアクセルが安定し始めたのが、自信につながっているみたい。長澤くん、どんな魔法をかけているの?」

「……言っておきますが、本人の努力です」


 マスコミにされたものと、全く同じ質問を市川監督が口にする。

 市川監督は俺が現役の頃から強化部長を務めている。発言力もあり、代表選考での決定権も強い。いわば、スケート連盟の女帝だ。


「出雲は五輪での金メダルを目指しています。俺はそれに、できる限りのことをしているだけです」

「つまりあなたは、自分の教え子が五輪に行けると思って指導しているのね」


 ……そういうことになるのだろう。それに、出雲の目標は五輪の金である。否定すると本人の意思に背くので、そういうことですと答えた。氷上の出雲の動きからは目をそらさずに話を続ける。

 市川監督は唇を弧に描いた。


「期待しているわ。今回の世界ジュニアの選考は本当に揉めたの。京本くんの方が、国際大会での実績が圧倒的にあるからね。でも、私が押し切ったの。全日本ジュニアで勝ったのは出雲だからそれを盾にね」


 つまり市川監督が推さなければ、代表はひっくり返っていたのか。本人が氷上にいてよかった。あまり聞かせたくない話だ。


「推薦して頂き、本当にありがとうございます」

「感謝するのはまだ早い。これから次第よ。最低でも二枠は持ち帰りたいからね」


 男子の派遣は出雲のみ。一人だけの出場の場合、十位以内に入れば、来季の日本男子の出場枠が二人になる。念を押すように期待していると言って、市川監督はリンクサイドから去っていった。


「市川監督、何しに来たんですか?」


 水を飲みに来た出雲が怪訝な顔をした。


「頑張れって言ってたよ。……それよりもさっきのステップなんだけど」


 俺は話題を演技に逸らした。最低でも二枠持ち帰りたいということは、最低でも十位以内に入れということだ。枠取りのプレッシャーは本人も感じているだろう。市川監督の話を蒸し返したくはなかった。

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