第九話 ファイアー・バード(はばたきの予兆)

 男子フリーの日になった。本人の予想通り、朝には平熱になっていた。咳き込んだり喉が痛くなったりすることもなく、ぐっすり眠れたようだ。


「いつも通り。最後までスピードを落とすなよ。魅力が半減になるからな」

「わかってます。それに、これはゲーム。そうでしょう?」


 教え子の答えに満足をしていたら、名前がコールされる。赤い羽根があしらわれた衣装で、教え子が飛び出していった。

 ジュニア男子のフリーは、四分間で十二の要素を滑る。要素は、八つのジャンプ、三つのスピン、一つのステップだ。

 フリーはイーゴリ・ストラヴィンスキー作曲のバレエ音楽「火の鳥」。

 出雲は男子にしては体が柔らかい。そして、バレエのレッスンの成果が出て、腕の使い方や指先の所作が本当に綺麗になった。滑りの質も良くはなっている。

 だが、男子らしい力強さには欠けていた。滑りのタッチも軽いのはいい個性だが、ジュニアのトップ選手と比べてもどうしても見比べられてしまう。

 そこを補うために「不死鳥」とも呼べる火の鳥を選んだ。ストラヴィンスキーのこのバレエ音楽は、前衛的で、滑りを後押しするようなダイナミックな曲だ。神月先生は俺の意図を理解し、ドラマティックな振り付けに仕上げた。

 攻撃的な金管楽器の音とともに、演技が始まる。最初のトリプルアクセルが肝心だ。

 助走に入る。鋭角的なストラヴィンスキーの音楽と重なる。今は長くてもいい。お前の着氷は綺麗なんだから、決めることが肝心だ。ショートの時の時よりもスピードがある。カーブを描いて――踏切は問題ない! フェンスに手をつけて、食い入るように回転を見つめた。一回、二回、三回……ジャンプから降りてきて、着氷姿勢に入る。


「――よし!」


 拳を握りしめた。

 フリーレッグが綺麗に伸びる。今季で、いや、今まで見てきた中で一番クリーンなトリプルアクセルだった。着氷の後のスピードも落ちていない。これでいい。歓声が上がる。

 全編を通して、鳥の羽ばたきのような振り付けを多用している。鳳凰、もしくは、フェニックスとも言われる幻の鳥。

 シットスピンは足を伸ばしたまま、両手を広げて回る。翼をイメージしたスピンだ。足を変えて変形。フリーレッグを横に伸ばした姿勢だ。

 前半のジャンプは問題がなかった。フリップがエッジエラーを取られているだけで。三回転サルコウ+三回転トウのコンビネーションも決めた。

 演技を見ながら、俺は振り付けの際に神月先生が行った言葉を思い出す。


『出雲の動きは雰囲気がある。だから、幻の鳥も滑り切れる。この曲が味方になってくれるはず』


 手を広げると、火を纏った羽が氷の上に落ちていく。一歩滑ると、幻の鳥は遠く彼方へと飛んでいく。イーグルで円を描いた次は、少し背中を反らせたイナバウアー。そこからすかさず単独の三回転サルコウ。時折、指先の角度が美しく、ハッとするほど穏やかな場面がある。勇壮な火の鳥は優しい子守唄も歌える。……そんなイメージが所作から伝わってくる。

 何かが乗り移ったような演技だった。決して音楽には負けていない。攻撃的な金管楽器の咆哮を、出雲のソフトな滑りが中和している。音に後押しされるのではなく、音に寄り添いながら自分のものにしている。淀みなくターンを描き、流れるようにジャンプを飛ぶ。ミスらしいミスは、フリップのエッジエラーぐらいしか見当たらない。そのフリップだって、離氷も着氷も問題がなかった。


 現実にはいない幻の鳥が氷上を舞い踊る。


 これが本来の力か。あの子は今、技術的なことを考えていないのかもしれない。勝負や結果も彼方に飛んでいるのだろうか。

 最後のジャンプは昨日決めきれなかった三回転ルッツだ。真っ直ぐ滑りながら、フリーレッグを高くあげる。アラベスクのポジション。男子選手では珍しいスパイラルだ。要素の一つではないが、技と技のつなぎとして認定される。それからルッツのプレパレーション。左足と右足が同じ軌道上になる。アウトサイドエッジでグッと踏み込んで――俺が両手を高く叩くのと、出雲が着氷するのは同時だった。ジャンプは全部降り切った!


 八つのジャンプを全て決めて、最後はリンクを真っ直ぐに突っ切っていくストレートラインステップだ。曲もフィナーレに向かって盛り上がる。足に乳酸がたまる最終盤。いつもなら落ちているはずのスピードが、演技冒頭と変わらない。


 そうだ、そのまま突っ切れ。

 未来に向かって走りなさい。


 ステップを滑り切った出雲がリンク中央に帰還する。ラストのコンビネーションスピンで目まぐるしくポジションが変わる。キャメル、バトンキャメルからのシットスピン。ラストは立ち上がってワンハンドのキャッチフット。

 本当の火の鳥にみえた。

 ラストのポーズを決めた時、観客は立ち上がって拍手を送っていた。



 ジュニアの大会は通常ならあまり観客は入らない。だが、開催地が名古屋だからか、今回の全日本ジュニアはそれなりに席が埋まっていた。名古屋はフィギュアスケートが盛んだ。ここを拠点に練習をしているジュニアスケーターが多数出場しているからだろう。

 呆けた顔で出雲が引き上げてくる。拍手と歓声に、感情が追いついていないといった感じだった。落ちてくる花束も多く、ノービスクラスのフラワーガールが必死で拾っている。


「……どうしたんだ?」

「あっという間で。……どんな演技だったんですか?」

「今までで一番良かったよ」


 本心からの言葉だった。タオルを渡すと、顔の汗を余すところなく拭いた。息がかなり上がっている。顔が赤い。熱が出たかもしれない。肺は大丈夫かと尋ねると、今は大丈夫ですと出雲は答えた。

 それでいい。喘息の発作が出るのも、発熱するのも演技の後なら。

 課題はまだまだある。スピードが落ちなかった分、滑りのエッジが浅くなる場面があったところとか。フリップのエッジエラーとか。肩が内向きになるところとか。

 でも、今日の本番でここまでできれば上出来じゃないだろうか。

 モニターに映し出された教え子の演技を、改めて一つずつ確認する。指先の使い方。腕の角度。顔の向き。着氷の時のポージング。全力だが、今日の動きはうまく力が抜けている。スピンの回転速度と回転回数を数えていたら、投げられたパンダのぬいぐるみを抱えた出雲が小さくつぶやいた。


「一年前を思い出しますね」

「……そうだな」

「あの時は、今日ここまでできるようになるなんて思っていませんでした」

「それを言ってくれるな」


 一年前の自分を思い出すと、出雲に対して申し訳なくなる。出雲から信用されていなかったし、俺自身も信じきれなかった。

 得点が表示されて、観客から戸惑い混じりの歓声が上がる。

 133.23。


 教え子と顔を見合わせて抱き合った。現在一位だった武田を10点離してトップに躍り出た。京本もこの点は出ていない。自己最高得点は128点だったはずだ。


 最終滑走の優勝候補に、プレッシャーを与える点になった。

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