第七話 浜辺の歌(そよ風のように)
二〇〇八年全日本ジュニア選手権。
出雲の一番のライバルになるのは、武田隼人と京本敏だろう。武田は東日本ジュニア、京本は西日本ジュニアの優勝者である。特に京本は去年の世界ジュニアの代表だった。トリノ五輪代表の紀ノ川彗の後継者と目されている大阪のスケーター。
今年の世界ジュニア選手権の日本の枠は一枠しかない。去年出場した二人が、二人とも十位以内に入れなかったからだ。今年シニアに上がった佐竹和也が十一位の、京本が十八位。
今は世界ジュニア選手権の切符をめぐって、去年の全日本ジュニア三位の武田と、去年のリベンジを果たしたい京本が激しく火花を散らしている。
そこにどうにか割り込みたい。
シーズンオフからの努力の甲斐があって、トリプルアクセルは飛べるようにはなっていた。だが、まだまだ不安定で、特にショートでのミスが目立った。チェコでは転倒、東北ブロックと東日本ではステップアウト。決められたのは、クロアチア大会だけだ。
リンクサイドに手をついて屈伸を繰り返す。緊張で動悸が激しいのか、呼吸が荒い。この呼吸が、喘息の発作をひき起こす場合があるので注意が必要だ。激しい緊張やストレスも発作の原因になりえる。
とは言っても、目標のひとつとして見据えてきた大会である。世界ジュニアに出場するためには、この大会での優勝は必須。緊張しないわけがない。
二〇〇八年全日本ジュニア選手権。開催は名古屋。男子シングルショートプログラム。
今は出雲の演技が始まる前だ。前滑走の選手の点数が表示されている。なかなかいい点数で、歓声が上がっている。顔が固い出雲に声をかけた。
「落ち着いて。緊張しているか? 競技会というのは広い意味でゲームだ。オリンピックゲームっていうだろう? だから、これはゲームだと思おう」
「ゲームですか?」
「そう。お前の夢はなんだ?」
「五輪の金メダルです」
知った上で、俺はわざわざ出雲に言わせた。思わず口端が緩む。……本当にこの子はブレないな。
「出雲がひとつ技を決めるたびに、五輪で金メダルを獲るっていう夢に近づける。転倒したりしたら減点になるけど、その分は、また取り戻せる」
「俺の夢に近づける?」
「そう。1000点とったら、五輪の金メダルだ」
この言葉は効果があった。俺が現役時代にプログラムに使った映画に、父親が子供にそう諭す場面があった。「ライフ・イズ・ビューティフル」。現役最後に滑った曲。俺は父親か、と自嘲気味に笑った。子供がいないどころか、結婚もしていないのに。年若い選手を指導するのは子育てに近いのかもしれない。
名前がコールされて、出雲は笑顔で飛び出していった。年相応に子供で微笑ましい。
しかし、俺の意図はそれだけではない。
体にどんな欠陥があるアスリートでも、自分の体で戦い抜きたいと思うはずだ。大怪我をしても、内臓に欠陥があっても、誰かの体にとって変わりたいなんて考えられないのだ。怪我を克服し、より強い肉体へと鍛えて競技に向かう。
出雲の体は確かに弱い。だけど、弱いなら弱いなりの戦い方がある。決して悪いことばかりではない。ゲームのように楽しんでいけばいい。見方を変えればどんな状況でも楽しくなる。
あの子にはスケーターとして、俺よりも大成してほしい。……指導をするうちに、いつしかそう思うようになっていた。
ショートプログラムは「浜辺の歌」。
誰でも知っている日本の童謡を、クラシックギターの編曲で滑る。
『こういう選曲は珍しいからジャッジの目も引く。だから、滑りの質が高まったっていうアピールしたい』
始まりは大小いくつかの円を描く。そしてワルツスリーのヴァリエーション。スリーターンを重ねた優しいフットワーク。ただし、手の動きにはそれなりに工夫がされている。
去年は力がなかった出雲のスケートである。滑っていても、力が足りなくてエッジがフラットになる場面が少し見受けられた。
そこで神月先生は、誰もが知っている曲にベーシックな動きを繋ぎに盛り込んだ。
基本的に滑るときは、インサイドエッジかアウトサイドエッジに重心が乗っている。両方に乗っている時はフラットスケートと言って、簡単に安定していられる状態をいう。
『スケートの醍醐味はエッジの切り分け。これをいかに細かく深く行うかが鍵。ベーシックな動きだからこそ、差が出る』
コンパルソリーを重んじる神月先生ならではの言葉だ。先生が競技者だった一九八〇年代は、ショートプログラム・フリースケーティングの前に、シングルもコンパルソリーが競技の実施演目に入っていた。課題の図形を描き、滑走姿勢の美しさや滑った図形の正確性を競う種目だ。廃止されて久しく、一見地味なのだが、すべてのスケーティング動作の基本とも言ってもいい。基礎がいかに自分の滑りを助けるか、身に染みている世代だ。
ジグザグに動くスネーク。円を描くワルツスリー。半円を描くスイングロール。スケートを始めたての初心者が、まず習う基本の動作。肩が内向きになる癖があるけど、今の所は余裕がある。
『そよ風のように滑りなさい』
振り付けの前に神月先生がいった言葉がこれである。
少しづつ加速して、長めに助走を取る。トリプルアクセルの軌道。
「とべっ!」
俺の掛け声と共に、出雲が前向きに飛んだ。助走のスピードが足りなかったから心配だ。不安が的中して、空中でバランスを崩して転倒する。
まだ大丈夫。次があるから。多分回転は足りているから大丈夫。落ち着いていけ。
氷の屑を払って再び滑り出す。着氷で捻っていなかったから安心する。三回転ループ+三回転トウループは問題なく降りて、フライングキャメルスピン。たっぷり回って、背中をそらせてフリーレッグを掴む。上から見るとドーナツの形になる。今季から導入したドーナツスピンだ。肩の可動域と背中の柔軟性が増えて、新たなポジションが取り入れられた。
男子にしては珍しいスピンで歓声が上がる。
スピンを挟んで、単独の三回転ルッツ。……あ。ルッツがステップアウトした。六分間練習でちゃんと決めていたし、どの大会でも安定していたから、俺も大丈夫だと安心し切っていた。
ショートプログラムは八つの要素を二分五十秒以内の中に入れ込む。三つのジャンプ、三つのスピン、形状の違う二つのステップ。ショートプログラムは、シニアとジュニアで大きく変わらない。
ショートではあえて、多くのステップやターンを詰め込まなかった。
派手に詰め込んでも、滑り切れていなかったらレベルが取れないし、振付師である神月先生のこの曲のコンセプトは「そよ風のように滑る」である。曲と同調した上でゆったりと丁寧に、そして深く滑っていけば、レベル2でも加点がもらえる。また、曲との同調性も「音楽の解釈」での評価対象だ。
ステップの動きはいい。失敗を引き摺らないで演技ができている証拠だ。
「浜辺の歌」は誰もが知っている分、よく言えば穏やか、悪く言えば眠くなる旋律だ。加えてステップはそんなに難しくはない。見ている観客やジャッジも、穏やかすぎて見どころがないと感じてしまう恐れがあった。
その代わりにスピンでメリハリをつけた。最初はドーナツスピン。緩やかにサーキュラーステップを滑り切った後は、レイバックスピンの変形のヘアーカッタースピンで。耳元にブレードをぴったりとくっつける、柔軟性がなければ出来ないスピンだ。次のストレートラインステップはスリーターンを主に踏み、ラストのコンビネーションスピンで目まぐるしくポジションを変える。
……穏やかな二分五十秒。クラシックギターの音色に乗せて、最後まで丁寧に滑り切った。
演技が終わって、少し残念そうな顔を見せた。トリプルアクセルの転倒よりも、ルッツのステップアウトの方が悔しいだろう。
「失敗したくはなかったんですけどね」
「大丈夫、フリーがある。フリーだって自信があるだろう? それに点数見てみろ」
トリプルアクセルのためにつけてきた筋力、スケーティングが、他にも生きている。点数に確実に反映されてきていた。
62.03。
大きなミスがなかった京本、武田に次いで三位でフリーを折り返すことになった。
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