第六話 盛岡デート(未満)

 八月末にシーズンインしてから、俺はますます出雲の指導にのめり込むようになった。


 あの釣書について考えたくはない。これから忙しくなるからと神月先生づてに断りを入れた。そうすると、それは重々承知で、娘に想い人がいなかったら来年の春あたりに……などと言っているらしい。その前に気が向いたらいつでも声をかけてくれ、とも。……気が重い。来年の春に気まずい思いで向かい合っているのだろうか。神月先生の旦那さんの上司の娘さんと。


 B5のノートには日付ごとに様々なことを書いている。湿気に弱いらしい。夏バテが酷かったので、盛岡特産の甘酒をあげたら喜んでくれた。夏の暑さはこれで乗り切れるかもしれない。季節の変わり目には注意が必要だ。最初に覚えたジャンプがサルコウだったからか、このジャンプは練習でも試合でも滅多に失敗をしない。ならばトリプルアクセルとも相性がいいはずだ。同じエッジジャンプだから。今日は何回トリプルアクセルに挑戦したか、そして、何回成功させたか。失敗した時の癖はあるか。フリップのエッジ矯正は根が深そうだ。

 後ろ向きに滑って、左足のアウトサイドエッジに重心を傾けて飛び上がるのがルッツジャンプ、インサイドエッジに重心を傾けて飛び上がるのがフリップジャンプである。出雲はルッツが得意な分、フリップを苦手としていた。正しいエッジで踏み込まないと「エッジエラー」と判定されて減点になってしまう。ここの矯正は根気よくやりたい。


 書けば書くほど改善点はあり、その成長がうれしくなる。チェコ大会では喘息の発作がひどかったから、今後はドーピングに引っかからない飲み薬も導入する。歩くときはマスクをつけて、気管を冷やさないようにする。肉が食えた。……書きながら、母子手帳を書く母親の気持ちはこういうものなのかと首を捻りたくなった。


 ジュニアグランプリとブロック大会は難なく終わった。東北・北海道ブロックでは優勝し、東日本ジュニアでは二位に入れた。国際大会のジュニアグランプリシリーズでは、クロアチア大会では三位表彰台に立つことができた。チェコ大会では四位だったためファイナルには出場できなかったものの、三つの大会の表彰台に立ったささやかなお祝いとして、好きなバンドのライブのチケットをプレゼントした。今日がそのライブの日である。たまには息抜きだって必要だ。


「会えばよかったじゃないですか」


 十月なかばの金曜日のディナータイム。目の前に座る崎山留佳はそっけなく答えた。

 留佳はかつてのリンクメイトで幼馴染だ。中学の時、彼女は怪我をして続けられなくなってしまったが、受付のバイトを経てアイスリンクへと就職した。


「案外、いい人かもしれませんし。神月先生の旦那さんの会社の上司の娘さんってことは、ちゃんとしたおうちのちゃんとした方ですよ」

「ちゃんとしたって、なんだよ」

「お嬢様で、逆玉の輿があるかもしれないって話です」


 神月先生の旦那さんは岩手市内の一般企業に勤めている。この前、部長から本部長に昇進したらしい。そんな人の上司と言ったら立場はだいぶ上だ。専務だか常務だか取締役か代表取締役かは知らないが。神月先生の旦那さんは、一体俺のどんなことを先方に話したのか。そして神月先生は、俺の何を旦那さんに話しているのだろうか。

 前菜のサラダとオニオンスープが運ばれてくる。釣書を見せてもらったのは二か月前。思い出して、胃を重くさせてしまっている自分がいる。

 ……目の前の女の子もその原因の一つだ。


「先輩だって、来年二十九になるんでしょ? 浮いた話の一つや二つ、あってもおかしくないのに。誰とも付き合ったことないんですか? もしかして童貞?」


 図星を突かれてオニオンスープを吹き出した。


「若い女の子が、そんな話をするもんじゃない」

「そういうところはじじくさいのに」


 マサといい、留佳といい、どうして俺の後輩は俺に対して容赦ないのだろうか。二人に酷いことをした覚えはない。全くない。

 留佳はサラダを荒っぽく食べている。彼女は今日、有給を取った。午前中用があるからと言っていたので、なら夜に食事でも行かないかと誘った。向かい合っているのは、盛岡市内のフレンチレストランである。


「……転職を考えていまして」


 サラダを食べる俺の手が止まった。


「いつまでも神月先生に頼りっきりじゃだめだなーって。結局私、神月先生にバイトから就職先まで全部お世話してもらったんですよ。ダメな生徒だったのに」

「……留佳はダメじゃないだろ」

「それ、皮肉ですか?」


 今日の瑠佳はどこかやさぐれている。転職活動がうまく行っていないらしい。文学部卒業のアイスリンク勤務。リンクでは事務仕事に広報活動に製氷までこなしている。盛岡スケートセンターにとってなくてはならない存在だ。


「私ってスケートリンクしか知らないんですよね。でも、事務がちょっとできるって言っても、秘書とか簿記とか持っているわけじゃないし。文学部卒なんて就職口ないし」


 なんでも注文していいと言ったので、留佳はブッフブルギニョンを、俺はアクアパッツァを頼んだ。こうなったらワインも注文すればと提案する。グラスで、とやってきたギャルソンに伝えようとしたら、すかさず留佳がボトルでお願いしますと言った。


「……俺、飲めないんだけど」

「いいじゃないですかー、こう言う時ぐらい! こんないいワイン、誰かの奢りじゃないと飲めないんですから!」


 しかも注文したのは五千円台のワインだった。味の良し悪しなんてわかるのだろうか。少なくとも、俺は車だから飲めない。飲酒運転は法律違反。「オリンピック出場経験のある盛岡在住のフィギュアスケートコーチ、飲酒運転で活動停止処分」なんていう、嫌な意味で有名になりたくない。

 高い酒をグビグビ飲みながら、留佳は管を巻いた。相当ストレスがたまっているらしく、底を知らない飲み方だった。そういえばマサも大酒飲みだったなと思い出す。前に世界選手権で銅メダルを獲った時、お祝いとして横浜中華街でご馳走した。その際に高級な紹興酒をマサ一人で飲み干していた記憶が蘇る。遠慮というものを知らない後輩二人だ。


「なんなの今日の面接官! 足元見てバカにしてる! 先輩! 二十六歳になったら有名企業でもない限り、女は用済みなんですって! さっさと結婚して旦那に養ってもらったらだって! 男女雇用機会均等法っていつ施行されました!? 二十年以上前ですよ!?」

「落ち着けって。肉がやばいことになってる!」


 ナイフとフォークで肉を切り分ける、ではなく、肉をズタズタにしている。就職面接でそんなハラスメントをする古代の価値観モリモリな企業に選ばれない方がいい、という言葉を飲み込んだ。


「あー……。なんで私、こんなにダメなんだろ……」


 言うだけ言って、今度は泣き始めた。泣き酒になってしまった。感情の行き場がないようだ。


「……デザート食べられる?」

「無理。吐きそう。あー……こんな自分じゃダメなのに……」


 何かの糸が切れたように、留佳が前のめりに倒れ込んだ。


「おい、留佳。……留佳!」


 飲むだけ飲んで、膿を吐き出すだけ吐き出して。

 テーブルに突っ伏して、後輩の女の子は眠ってしまった。



 留佳は実家暮らしで、家の場所は把握している。会計を済ませて、寝息を立て始めた留佳を車に運んで助手席に座らせた。最初から送っていくつもりだったので問題はない。後輩が眠っている以外。……デートのつもりだったのは俺だけなのが悲しくなる。

 ゆっくりと運転しても、彼女の家に確実に近づいてしまう。何も言えずに名残惜しい。


 ハンドルを切りながら、赤信号で停車したときに留佳の寝顔を見た。

 ここじゃダメなのかよ、と言いたかった。


 今は景気がいいとは言えない。スケートリンクの事務員の給与がどれだけなのかはわからないが、側から見ると無理して転職する必要もない気がしてしまう。通年の営業ができているから、財政状況は悪くはない。所属している選手だけではなく、留佳をはじめとした裏方の力が大きい。

 留佳が目を覚ましたのは、彼女の家の前にカローラを停車させた時だった。


「……頭いたい……」

「とりあえず、水飲め。家に着いたぞ」


 車に乗る前に、レストランの隣のコンビニで買ったペットボトルの水を瑠佳に渡した。


「ああ……。ありがとうございます。……碌でもない話しちゃってすみませんでした」

「気にするなって。歩けるか?」

「大丈夫です、ありがとうございます」


 留佳が助手席を開けようとした。


「なあ留佳」


 俺は留佳に向けて手を伸ばした。

 ここじゃダメなのかじゃない。

 本当は、俺じゃダメなのかと聞きたかった。


「先輩?」


 酒が回った留佳の瞳は、無垢な少女のように澄み切っていた。昔の光景が思い出された。背中に手を回そうとして、その手が止まる。


 私、昌親のことが好きなんですよと言った中学生の女の子。


 俺は自分の感情を誤魔化すように、留佳の耳に触れた。


「いや、耳の形がいいなあ……って思って。それだけ」

「なんですか、それ」


 留佳は呆れたように笑う。今日はありがとうございました、おやすみなさいと言って、車を出た。


 抱きしめようと思った右手が宙をかく。また失敗してしまった。留佳に言いたい言葉だってたくさんある。伝えたい思いだって。温め続けてタイミングを失いかけている。


 いまだに、留佳の心にマサがいるんじゃないか。俺も、留佳も、マサも、いい大人になっているのに。


 自分の心は決まっているのに、それが怖くていまだに踏み出せない。

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