第三話 神の使いの予言


「俺が初めて盛岡に行った時は新幹線だったんですよ。空よりも陸で行った方が安かったもんで。武者修行っぽくっていいでしょう?」


 その分時間がかかったのを知っている。わざわざ陸路で来ることもなかったろうに、と、彼と知り合った時にしみじみと思ったものだ。

 それから十五年以上経った。一時期は盛岡で切磋琢磨(せっさたくま)し、同じ五輪にも出場した。今では互いにアマチュアスケーターを引退した身分だ。完全にショーの世界から身を引いた俺と違って、目の前の彼はアイスショーに積極的に出演しているが。

 ……俺は後輩が活動拠点としているリンク、釧路クリスタルセンターを訪れていた。


「久しぶりですね、長澤先輩」

「マサこそ元気そうだな」


 身長は二センチほど俺の方が高い。目線の位置も大した差ではない。だけど、俺と彼の間に、二センチではなくキロ単位で差が開いていた。彼がチョモランマの最高峰なら、俺は岩手山ぐらいがせいぜいではないだろうか。

 マサことつつみまさちか。長野、ソルトレイクシティの二大会の五輪に出場。世界選手権では優勝はないものの、何度か表彰台を経験している。最高成績は二〇〇四年の二位。二〇〇五年のクリスマスに引退した後、故郷の釧路に戻り、ショースケーターの傍ら指導者としてのキャリアを歩み出した。

 俺は釧路クリスタルセンターの内装を眺め回した。この時間は、スケートクラブの練習時間ではなく、一般滑走客を入れる時間らしい。高校生らしいカップルや年配の女性客に混じって、数人の小学生が自主的に練習をしている。子供らしくおぼつかない滑り。もこもこの耳当てをした男の子。


 数年前に、俺が活動拠点としている盛岡スケートセンターは大幅な改修工事を施した。フィギュアスケート競技で初めて日本人の金メダリストを輩出したトリノ五輪が終わった後、日本に空前のフィギュアスケートブームが訪れた。その恩恵をいただくように、一般の利用者だけではなく、フィギュアを習わせる親が増え、盛岡のクラブは人数が増えた。

 それに比べると、ここのリンクは随分寂しく見えた。盛岡も田舎の小都市だが、ここはもう少し田舎度が深い。レンタカーで走っている限り、平日の午後にしては子供の姿は少なかった。スケートリンクの近くには小学校もあるのに。少子化のあおりをもろに受けている。


「古臭いですか?」

「まぁ。ちょっとあの辺とか気になる」

「やっぱりですか。直した方がいいのは山々なんですが、業者もこの辺いないんですよねー」


 俺があの辺、とさしたのはフェンスの塗装である。サビがひどく目立つ。マサはどうしてこの町に帰ってきたのだろうか。


「積もる話は色々ありますが、まずは茶でもしませんか?」

「いいな。どこかいい場所知っているのか?」


 駅前のホテルを取り、レンタカーで釧路クリスタルセンターまでやってきた。その途中で、いくつかの個人経営の喫茶店を発見した。多少距離はあるが、車だから問題はない。


「そうですね。……哲也、ちょっときて!」


 マサはリンクに向かって声を張り上げた。

 その子は、スーッと滑ってマサのところにやってきた。もこもこの耳当てをした男の子初対面の俺に向かって、丁寧に挨拶をした。


「こんにちわ」


 よく見なくても綺麗な顔立ちの男の子だった。出雲とは少しベクトルが違う。出雲は、笑うと周りに花が咲く。彼は口を開くと、上流から清らかな水が流れる。瞳が綺麗だ。俺が来る前まで、ずっと氷の上にいた拙い滑りの男の子。

 マサは哲也と呼んだその子に向き合った。


「今日はただの自習だよね? なら、ちょっとお使い頼まれてくれない?」

「なんですか」

「うーん、そこのコンビニに行って、ビールを二缶買っておいで」


 マサの思わぬ言葉にぎょっとする。


「はあ!? 子供に何買わせようとしてんだよ!」


 子供は目を釣り上げて当然だが激しく抗議する。俺だって信じられない。前から奔放だったが、俺の後輩は、子供に堂々と違法行為を強要する奴だったか?


「まあ、お釣りでおやつ買って良いから」

「そういう問題じゃないだろ! TPOとか常識とか、そっちを気にしろよ」

「難しい単語知ってるねー。えらいえらい」

「ごまかすな!」

「エビスビールがいいなぁ。あと、つまみも適当によろしく。ホットコーヒーも忘れずにね」

「注文が多い!」


 ひとしきり文句を言った後、男の子は不承不承、マサから小銭入れを受け取って、大股でリンクから出て行った。小さい背中は「あのやろう。また面倒なこと頼みやがったな」と言っている。


「マサ、あの子は?」

「んー? 結構面白いんだ、あの子。大丈夫、酒じゃなくて、あの子のことだからノンアルの炭酸買ってくるよ」


 マサのいう通り、男の子はビールではなくてアルコールのない炭酸飲料を買ってきた。彼は、袋の中から肉まんを出してリンクに戻っていった。好きなものを買っていい、というマサの言葉には、素直に甘えたようだ。嫌いなものをあまり言わない後輩だが、肉まんは何故だか嫌いだったと記憶している。


 スケートリンクの外で、ウィルキンソンのジンジャーエールで乾杯する。硬い瓶同士がカン、と響く音が、晩冬の空気に浮かび上がる。コンビニ袋の中には、いくつかの食品が入っている。スティックの野菜。じゃがりこ。軟骨の串。買ってきてくれた男の子に感謝を心の中で述べつつ、軟骨の焼き鳥に口をつけた。

 盛岡も寒い。しかし釧路の寒さとは少し種類が違う。盛岡は、岩手山からの渇いた冷たい風が、素早く皮膚を通り過ぎていく。釧路の寒さは、粉雪よりも細い寒気の粒子が肌に纏わりつく。湿気も釧路の方が多いだろう。

 羽ばたきの音。リンクの向こうには、枯れた雑草が目立つ畑がある。作物のなくなった畑に、何頭かのタンチョウが羽を休めている。首は立派に太く、嘴(くちばし)は赤い。澄み切った空を回遊しているのは、ここから羽ばたいた個体だろうか。


「わざわざ俺に会いにきたって、何かあったんですか。ただの近況報告じゃないでしょう」


 野菜のスティックをぼりぼりと噛みつつ、マサが切り出した。


「やっぱりマサは鋭いな」

「丸わかりですよ、先輩。で、なんですか? なんでも聞きますよ」

「……出雲のこと、覚えているか?」

「もちろん。……て、去年から先輩が教えているじゃないですか。去年の全日本ジュニアの解説は俺でしたから」

「そのことなんだけど……。出雲をどう育てたらいいか、少し迷っている」


 はらわたを隠しても、出雲のためにも、俺のためにもならない。

 俺は全ての迷いを、マサに話すことにした。


「才能は認める。五輪で金メダル取りたいっていう意気込みもわかる。だけど、あの子は体が弱い。今でもしょっちゅう熱出すんだ。あと俺には、多少引け目がある。半端者だから。本音を言うと出雲を育てる自信がない」


 出雲の体の弱さだけではない。俺自身の半端さに問題があった。

 これからはあなたに出雲を託してみたい。恩師にそう言われて引き受けたのはいい。もともと知らない仲ではない。盛岡を離れるまで、小さい出雲と一緒に練習していたのだ。

 しかし出雲に関われば関わるほど、自分がいかに半端だったかを思い知らされた。

 才能はあるにはある。だけど頂には辿り着けない中途半端な自分。こんな自分が、五輪の金を獲ると言っている子を正しく導けるのだろうか。


 昔、この二つ年下の後輩に、俺は少しばかり嫉妬していた。彼には邪気がない。そして、目標に向かってただひたすら走れる。そうではない俺には、マサの豊かな才能と無邪気な向上心がたまに残酷に映った。皆が皆、真っ直ぐに目標に向かえるわけではないし、自分を信じ切れるわけではないから。


 俺はやけくそ気味にじゃがりこを頬張った。現役時代は絶対に食べなかった駄菓子類。なんの制限もなく食べられるようになった今でも、薄い罪悪感が背中に纏わりつく。

 節制。鍛錬。いくつもの時間を費やして、自分の身体を鍛え上げ、それでも輝かしい実績を持てるのはほんのひと握り。

 あの子の体が耐え切れるか。そこまで俺が、出雲に対してきちんと責任が取れるか。導ける自信がない。不安は尽きない。


「……さっきのあの子」


 マサはジンジャーエールの瓶から口を離した。


「あの子?」


 これ買ってきてくれた子です、と、マサはジンジャーエールの瓶をぶらぶらさせる。


「さっきのあの子。あの子を初めて見た時に、ちょっとぞくっとしたんですよ。遠くを見る目とか綺麗で。自分の世界に浸り切れる子でびっくりしました。自分と違う才能を持つ人間って、たまに恐ろしくなりますよね」


 ジンジャーエールを買わせた子とは、正式な師弟なのだという。先ほど滑りを見せてもらった。不思議な滑りだった。初めて二年だという滑りは、その月日しか経っていないのがわかるほど拙い。しかし一歩滑ると、清涼な音が発せられているような気がした。マサとも出雲とも違う。ただただ澄み切っていた。


「あの子とはどこで会ったんだ?」

「それは秘密」


 マサは人差し指を口元に当てた。マサが釧路を拠点としたのも二年前だ。あの子がいるから、マサは釧路に戻ってきたのだろうか。


「でも結局、俺は俺しか知らないし、先輩は先輩自身しか知らない。先輩が出雲を教えるのが怖いのは、無理ないです。でも出雲は五輪で金メダル獲るって言っているんでしょう。だったら、その思いに、先輩ができる限りのことをしてあげればいいじゃないですか。自信なんて後からついてきます。先輩に足りないのは、覚悟だけですよ」

「覚悟」


 マサに言われた言葉を反芻する。心の中でも繰り返す。覚悟、覚悟。


「……お前は簡単に言うけどさあ」


 情けないぐらい張りのない声だった。二つ年下の男の方が、遥かに包容力が高い。そして、俺の弱さを見逃さなかった。腹を括れと言われている。才能もやる気もある。だったら、本気にならないのは指導者の怠慢なのだと。


「それに俺は、出雲と先輩は結構いいコンビだと思うんですけどね」

「なんでだよ」

「そりゃ、二人とも留佳が好きだからですよ」


 ウィルキンソンのジンジャーエールは、むせるとわさびを食べた時みたいに鼻にツーンとくる。無様に咳を繰り返す俺に、後輩は人が悪そうに薄く笑った。


「頑張ってくださいよ、先輩。次の世界ジュニアで、出雲を見るのを楽しみにしていますから。なんだったら、ソチの実況、俺が担当したいですね。歴史的瞬間を間近で見られるかもしれない」

「……あの子がソチに出られるかはわからないよ」

「それは先輩次第です」


 さっきとは別のタンチョウが青空を駆けていく。雄大で、神々しい。この辺りでは神の鳥と言われるらしいが、確かに頷ける。神は世界を支配するのではなく、人々の営みを睥睨するものだ。マサみたいだと思う。


「……お前、結構出雲のこと信じているんだな」

「先輩もでしょう?」


 じゃがりこが一本だけ残っていた。俺はその駄菓子を、マサに取られる前に素早く口に放り込んだ。

 これ以上は泣き言なんて言えない。

 覚悟を決めろ。腹を括れ。薄く微笑むマサの顔は、確かにそういっていた。


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