第二話 ゾンビよりもひどい顔

 全日本ジュニアが五位だったから、シニアの全日本選手権に招待されていたが、出雲は辞退せざるを得なかった。持病の喘息が悪化したのと、右足を捻挫したのだ。苦手なフリップの練習中、足首が変な風にぐにゃっと曲がり、次の瞬間には腫れ上がっていた。

 年明けてからの大会は、国内も国外もジュニアは多くない。中体に一回出て、そのシーズンは終了した。


 季節は二〇〇八年の春になった。

 俺は事務室の椅子に座ったまま動けないでいた。夜の九時を過ぎて、残っているのは一部の生徒と指導者。


「浮かない顔しているわね」


 スケートリンクの事務室に入ってきたのは恩師だ。五十路に手が届くが、昔と変わらず若々しい。よく伸びた背筋が美しい、この盛岡FSCのヘッドコーチ。


「……そんなに冴えない顔していますか?」

「ええ。ゾンビの方が人間味あるわね。「ナイト・オブ・ザ・リビングデット」とか見たことない?」

「好きなんですか? ゾンビ映画」

「基本でしょ」


 恩師の意外な一面を見た気がした。

 神月美里。高校を卒業するまで俺を指導してくれた。指導者歴は長く、何人かの生徒を五輪に連れて行った経験がある。東北を代表する名指導者だ。

 ショースケーターをしていた俺が盛岡に帰ってきたのは、神月先生の存在が大きい。彼女の元でなら、指導者としての一歩を踏み出せるかもしれないと思ったからだ。一昨年の夏に盛岡に戻り、そうして預かったのが神原出雲だ。指導を始めたのは去年の四月。ジュニアデビューと一緒だった。

 出雲のことはよく知っている。子供の……幼稚園に上がる前から、このリンクに遊びにきていたのだ。彼の母も多少は面識があった。だから余計先ほどの話が辛い。


「……先ほど出雲のお母さんから、話がありましてね……」

「そう。それで、なんでそんなゾンビみたいな顔しているのよ」

「指導者を、神月先生に戻してくれって」


 神月先生は俺の言葉に吹き出した。腹を抱えて最初は抑えて、しかし次第に声を上げて笑い出した。


「なんで笑うんですか!」

「それねー、私もお母さんから言われたわ。不安に思ったんでしょうけど。でもね、そういうお母さんの気持ちもわかるの。あなた、出雲に対してどこか一歩引いているんだもの。省エネ指導が過ぎるんだから、自業自得よ、愚か者」


 一歩引いている。自業自得。省エネ指導。それは自分でも自覚していた。改めて指摘されると暗くなるのだから、人間とは勝手なものだ。


「私はね、あなたが教えればもっとあの子は成長すると思ったの。それなのに……」


 あきれ返った神月先生の説教が始まる。俺の指導態度にとにかく苦言があるらしい。

 やる気がないのではない。無理をさせられないだけだ。熱が上がったり下がったり、入退院を繰り返す男の子だ。繊細なガラス細工を扱うようにしか、出雲と接することができない。他の子ならもう少し突っ込んで練習させるところを、出雲には「それぐらいでいいんじゃない?」としか言えない。そうすると出雲はすっと練習をやめる。今日もありがとうございましたと言って、リンクから出る。いうことは聞くが、納得していない顔で俺を見る。

 この一年はその繰り返しだった。無理をさせないが過ぎる省エネ指導。この一年で俺が教えられたことなんて数少ない。結果や成長が見られないなら、指導者変更を考えてもおかしくない。


「神月先生はどうして出雲を俺に託したんですか。ずっと先生が教えていたでしょう」

「出雲が、五輪で金メダルを獲るって言ったからよ」


 ひとしきりの説教が終わり、恨みたい気持ちで神月先生に尋ねると、恩師は力強く言い切った。


「それに私は古い人間よ。基礎は教えられるけれど、今の採点に合わせた戦略も上手くない。でもあなたなら、今の採点法にも適応できる。ついこの間まで滑っていたんだから。それに氷の上での実演は、うちのインストラクターの中で誰よりもあなたが一番上手い。出雲にとっては一番の手本だわ」


 ――フィギュアスケートは、二〇〇四年に採点方法が大きく変わった。

 昔の採点法――俺が選手時代を送った採点法6.0システム――では、技術点、プレゼンテーションの二項目で、「6.0」が満点となり、最終的には、「誰を一位にするか」という相対評価だった。


 しかし今の採点法は、技の一つ一つに点数がつく。演技そのものに点数がつく「絶対評価」になった。


 昔の、あやふやで評価されなかったところも明確に評価されるようになった。


 例えばジャンプの回転不足。ルッツジャンプ、フリップジャンプのエッジの明確化。スピン、ステップ、スパイラルのレベル化。最低評価がレベル1で、最高評価がレベル4。スピンの際、難しいポジションでやっているか。チェンジエッジはやったか。回転軸はぶれていないか。ポジションは綺麗に保てているか。ステップの場合、より多くのステップやターンを一つの中に入れているか。エッジが深く倒せているか。正確性があるか。スパイラルのエッジチェンジ、流れの大きさ、ポジションの多彩さなどなど。


 プレゼンテーションとざっくりとした意味だった芸術的な採点も、演技構成点として、「スケーティングスキル」「トランジッション(技と技のつなぎ)」「パフォーマンス」「振り付け」「音楽の解釈」と五つに細分化され、それぞれが10点満点で評価される。技術点同様に数値化されるようになった。


 ショートプログラムの技術点及び演技構成点と、フリースケーティングの技術点及び演技構成点の合計点で競うのが、今のフィギュアスケート競技である。

 技や芸術部分が数値化されることは悪いことばかりではない。……時に残酷だと思うけれど。タラレバ、は厳禁だが、俺の現役中にこの採点になっていたらとも思う。


「真一」


 口元は笑っているけれど、目は笑っていない。力強い瞳に睨まれて思わず怯む。


「さっきも言ったけど、あなた、もう少し出雲と真剣に向き合ったら? 側から見ている私やお母様がわかるのよ、あなたが未だに本気になっていないって。出雲はもっと感じているでしょうね」

「わかってます。わかってますよ……」


 それでも言い訳をしたい自分を自覚してしまう。

 何も返さない俺の肩を、神月先生が軽く叩いた。


「とりあえず、一週間は私が見るわ。あなたは頭をリセットして、少し休んできなさい。その間、リンクに来ちゃだめよ」


 *


 全ての練習が終わって、帰路に着く。

 車をマンションの車庫に入れて、部屋の鍵を回す。グレーのカローラも1DKのマンションも、盛岡に帰ってくる際に購入したものだ。両方とも中古だが、悪くはない。


 冷蔵庫を開いて、缶ビールに手を伸ばしかけて止める。神月先生との最後の会話が、濁りのように残ってしまっていた。このままヤケクソ気味にアルコールを摂取したくはなかった。庫内を確認して、きゅうりとキムチと盛岡冷麺の袋を取り出した。タンパク質がないので、麺を茹でた後の熱湯で、鳥のササミを茹でて割く。

 自炊は現役時代に覚えた。自分の身体を管理するのもアスリートの仕事だ。難しいものでなければ、それなりに作れる。冷麺は炭水化物過多だろうかと思わなくもないが。


 一週間休みになった今、この時間をどうすべきか俺は迷っていた。


 適当に冷麺を食べた後、デスクについてパソコンを起動させた。ほとんど癖で、所属していたロイヤルホテルグループのアイスショーのサイトを開いた。ゴールデンウィークの横浜公演、七月の連休の東京公演など、いくつかの開催が決定されている。


『横浜公演ゲストスケーター:堤昌親』


 後輩の名前を見付けた。


 彼とはメールで近況を報告しあい、今でも連絡を取り合っている。しかし、しばらく顔を付き合わせて話をしていなかった。最後に直接会ったのって、そういえばいつだったか? 

 俺を遥かに凌駕する才能を持った、二歳年下のスケーター。


 あいつだったら、今の俺と出雲を見てなんというのだろうか。

 あいつが俺の立場だったら、出雲とどう関係を築いていくだろうか。


 一週間時間がある。インターネットで釧路行きの飛行機を確認する。俺はメールボックスを開いて、新規のメッセージを送るための文章を考えた。


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