第五話 カルメン幻想曲(ファム・ファタールについて)
ショートプログラムは、パブロ・デ・サラサーテ作曲の「カルメン幻想曲」。
官能的なヴァイオリンの音を、カスタネットが飾る。それにフラメンコシューズが床を打つ音も入れて、滑るフラメンコを目指した。細かいリズムを刻むのが難しかったが、滑りがいのある作品だ。
「お前はどちらかというと、刺すよりは刺される男だよな。演じているときは別人だけど」
「なら林田先生はエスカミーリョですか?」
「当たり前だろう」
練習の時、コーチの林田総士先生は自信たっぷりにふんぞり返った。四十半ばの、アイスダンス出身のインストラクターだ。背が高く、歳を感じさせないほどの美丈夫ぶりで、この人は冷凍保存されているんじゃないかと推測している。本人が言うには、若い頃は「氷上のアラン・ドロン」と呼ばれていたらしい。流石にそれは盛りすぎじゃないかと思う。
俺が広島から京都に出てきたのは、シニアに昇格してからだ。以来、ずっと林田先生に指導を仰いでいる。トリノ五輪もバンクーバー五輪も総士先生と一緒に行った。一時期海外の先生に教わっても、最終的には総士先生のところに戻ってきた。怪我をした時も、リハビリから逃げた時も、先生は寛大だった。口は悪いが、いい先生だ。
ショートの曲は、「お前もいい大人なんだから少しは色気をつけろ」と余計な一言を添えて林田先生が選んだ。俺という人間を知り切った上での発言である。
オペラの「カルメン」は、カルメンという美悪女に惚れたせいで破滅する情けない男を描いた作品でもある。一回先生と観劇したが、この作品をどういう感情で見ればわからなかった。プログラムを体で覚えても、いまいちしっくりこなかった。
「ファム・ファタールってやつだ。例えばお前、舞が別の誰かを好きになったらって考えてみろ。でも、想像するだけで嫌だろう? ホセの気持ちってのは、そういうことだ」
どう滑ればいいか考えあぐねていた時、林田先生が電子タバコを吸いながら、ここにいない恋人を例に挙げた。舞とはバンクーバー五輪が終わった後、正式にトレーナーとして契約し、プライベートでは恋人になった。彗は私がいないと駄目だからねと笑いながら、俺の告白を受け入れてくれた。
恋は気まぐれ。カルメンは気まぐれにホセを好きになり、服を着替えるように闘牛士のエスカミーリョに乗り換えた。
しかしホセみたいに、気まぐれでは済ませない人もいる。
舞がきまぐれで俺と付き合っていたらそれは嫌だ。
そう考えたら滑りやすくなった。
ニースの観客は温かい。最終グループになると、会場の熱気でだいぶ氷が柔らかくなっているけれど、観客の歓声が後押ししてくれた。
曲が始まり、一度滑り出すと止まらなくなった。
前の滑走のフィリップがいい空気を作ってくれていた。彼の点数は92.00で現在一位。チラチラと演技を見ると、エッジのキレがよかった。ショートの曲は映画「007」のサウンドトラック。上半身の動きにもメリハリがあった。いい演技をしているのが伝わってきていた。プレッシャーになる状態だが、この流れに乗りたい。
去年ショートプログラムのルールが変わり、要素が一つ減った。ステップが二つだったのが一つになった。減った分、演技にゆとりが持てるようになった。
ショートに四回転は入れなかった。その代わりに、トリプルアクセルと三回転ルッツ+三回転トウループのコンビネーションを後半に入れた。
カルメンの気持ちが気まぐれなら、その気まぐれを表すように、足元を複雑にすればいい。ステップワークをこれでもかと複雑にできるのは、アイスダンス出身の総士先生の力が大きい。
エスカミーリョは闘牛士らしく颯爽とした男だ。その対極がホセで、兵隊崩れの彼はどこか垢抜けない。しかし、煮え切らない男にはその男なりの感情がある。愛する女に対する煩悶。悪事に加担することの罪悪感。その人が心変わりしているのではないかという疑心暗鬼。いっそ殺して永遠に自分のものにしてしまうという結末は、彼にとっては大変な悲劇である。
華やかなハバネラにアラゴネーズ。サラサーテはヴァイオリンの悪魔だ。技巧という技巧をこれでもかと曲に入れてくる。スタッカートを多用したかと思うと、歌うように音が伸びていく。気まぐれなカルメンは曲。俺は、その女に恋をした煮え切らない男の感情と悲劇を氷の上に描く。
右足の調子は悪くない。たまに、断裂した膝ではなく骨折した足首が痛む時がある。失敗が許されないショートで四回転を入れないのは、右足を慮って決めたことだ。その代わり、昔と違って両足でバランス良くステップを踏むことにした。ジャッジの採点の傾向が変わったからだ。おかげでレベル4を獲りやすくなった。
演技が終わって全てのトレースを見ると、それなりに複雑なものになっていた。うん、悪くはない。
四方八方にお辞儀をする。関係者席に座る華やかな顔が拍手を送ってくれていた。
遠目でわかるほど青白い顔だった。
ショートプログラムは調子の良さを表すように、地元フランスのフィリップ・ミルナーが一位になった。二位が俺で、三位はカナダのスコット・ヴァミール。四位がアメリカのネイト・コリンズで折り返す。
ホテルに戻る途中、出雲とすれ違った。彼は八位だった。顔色の悪さが増している。お疲れ様、と声をかけると、出雲は丁寧にお辞儀をしてくれた。
「体調は悪くない?」
「……お陰様で。紀ノ川さんは素晴らしかったです」
他人の演技を見て素直に賛辞を送れるのが、出雲の美点だ。交わした会話はそれだけだったが、少しだけ安心した。顔は青いが、キス&クライで荒かった呼吸も今は落ち着いている。彼にとっては初めての世界選手権だ。見るもの全てが刺激的だったようで、きらきらと目が輝いている。フリーは明日だ。明日、また頑張りましょうと言って彼は背中を向けた。
背中の細さが、出雲の儚さを強調しているように見えた。
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