第四話 京都の休日 —―紀ノ川彗、2006年ー2010年

 幾何学模様のスケートに感情を乗せる方法を知ったのは二〇一〇年のバンクーバー五輪からだ。


 初めて出場したトリノ五輪は、フリーで四回転トウループを失敗した以外ろくに覚えていない。何が何やらわからないうちに終わってしまった。開き直れても、生来のヘタレが改善されたわけではない。初めての五輪のピリピリした緊張感と、四年の一度の祭典に賭けている選手たちの熱い思いを直に浴びてしまって、それだけでもう吐きそうだった。パラヴェーラのリンクは、開会式でパヴァロッティが歌った「誰も寝てはならぬ」に負けないほど威圧的に映った。自分でもあの五輪で七位に入ったのは、今でも普通に凄いと思っている。

 憧れていた堤昌親は、トリノ五輪の代表に落選した二〇〇五年のクリスマスに引退を表明した。俺はトリノ五輪からの流れでそのままカルガリー開催の世界選手権に出場し、四位に入賞を果たした。

 長野五輪から日本のフィギュアスケートを引っ張ってきた先達が引退すると、次のシーズンは一気に俺に注目が集まってきた。アフター五輪シーズンは、一気に選手が抜ける時期でもある。五輪が終わって一区切りがついたから、という理由もあるだろう。大会で見かける選手の顔ぶれも随分変わった。


 トリノが終わって数シーズンは好調だった。グランプリファイナルで表彰台に上がり、東京開催の二〇〇七年世界選手権では銀メダル、スウェーデン開催の二〇〇八年世界選手権では銅メダルを獲得した。スケーティングだけではなく、真面目にジャンプ練習も積んできた成果が出てきていた。トリノ五輪で失敗した四回転トウループは、成功率七割を超えるようになった。

 それでもたまに弱い自分が顔を出して、肝心なところでくだらない失敗をした。これが決まればパーフェクトというところで最後の三回転サルコウを失敗したり、焦ってジャンプを飛びすぎてノーカウントになったり、ステップの途中で溝に足を取られて転倒してレベル1になったり。途中で靴紐が切れたけどジャッジの元に行くのがめんどくさくてそのまま滑っていたら靴がすっぽ抜けたり。


 実力や実績はついてきているのに、いまいち決めきらない。

 そんな自分にうんざりする。日本のエースという単語が重い。


「俺ってエースって柄じゃないよな」


 二〇〇八年のグランプリファイナルが終わった後、コーヒーショップで待ち合わせをした舞に弱音を吐いた。これさえ決まればファイナル初優勝、というのを逃して銀メダルになったときだ。

 お互いに大学は卒業していた。舞はアスリートのマネージメント会社に勤めながら、スポーツトレーナーを目指していた。その勉強のために俺の話が聞きたいらしく、練習と試合の合間によく顔を合わせた。会いたいのが俺だけじゃなくてほっとした。才能のことを話して以来、俺の中で舞は他の友人とは位置が違うところにいる気がしていた。

 耳の高さで一つに縛った茶髪に、一筋後れ毛が飛び出ている。出会うと、大体、初めて話した時と同じような、だぶだぶのパーカーとジーンズに黒縁のメガネ姿だ。化粧っけはあまりなく、履いているのはスニーカーだ。学生時代と変わらない。


「別にいいんじゃない?」


 ノートにメモをとりながら、舞はハニーカフェラテをかき回していた。


「今の所、彗はエースっていうよりも、ホッケーの道具を身につけたウサギって感じ。でも、みんなそうなのかもよ? 誰だって弱いところを押し隠して戦っているのかもしれないし。彗が憧れた堤昌親だって、完璧なわけじゃない」


 自信を持て、とか、もっと結果を出せ、と言わない舞である。練習や試合の合間にたまに顔を合わせて弱音を吐くと、すとんと落ち着く一言をくれる。


「彗はエースじゃない。スケーターだよ」


 今できる精一杯をやって、失敗したら原因を考えながらまた立ち向かえばいい。

 そう思った矢先。転落は二〇〇八年のクリスマスにやってきた。


 *


 クリスマスは全日本選手権の時期である。俺にとっては、その年の全日本は大会四連覇と世界選手権の代表かかった試合だった。若手は台頭し、同世代も虎視眈々と成長して表彰台を狙っている。

 ショートの六分間練習中だった。ふくらはぎにハリを感じて、ジャンプの着氷に違和感を抱いていた。

 当時の採点傾向として、片足で半分以上の距離のステップを踏めば、ステップシークエンスでレベルが取れる可能性が高かった。レベル3の加点+3とか、うまく言えば最高評価のレベル4をいただける。もちろんそれを実施した上で、正確なターンが踏めているかどうか、ではあるが、試してみる価値はあった。

 右足で全てのジャンプを着氷し、右足で主にステップを踏む。

 右足の酷使には結構前から気がついてはいた。その度に、丁寧にケアしてきたつもりではある。それでもここ数ヶ月、短いスパンでの大会が重なりすぎていた。このシーズンで出場した大会は、四試合。全て一週間しか時間が空いていない。

 ふくらはぎのハリはただの前兆でしかなかった。一番負担がかかっていたのは膝と足首だった。

 六分練習の残り一分で、得意なはずのトリプルアクセルで転倒する。立ち上がろうとして、痛みで頭が真っ白になる。

 右足が全く動かせなくなっていた。


 全日本選手権は棄権した。その足で病院に行き、右足首の疲労骨折と右膝の半月板の損傷が判明し、四大陸選手権、世界選手権ともに派遣はなくなった。スケート連盟の温情で世界選手権に出場しても、代表枠を獲得できるはずがない。

 半月板はバケツ状に横断裂していて、水が溜まっていた。分裂部位が一センチ以上だったため自然療法は叶わず手術が必要になった。断裂部位を縫合してもらい、右足首にギプスをしながらリハビリを始めた。


「スケート選手にとって半月板は命だから、氷上に戻りたいならリハビリは手を抜かないように」


 着氷の際は膝を曲げる。半月板は着氷の衝撃を和らげる大事な部位だ。

 リハビリは数ヶ月に及んだ。その間に、いろんな人がきてくれた。コーチの林田先生、振付師の浅野先生、リンクメイトと学友たち。母と、普段はアトリエに引きこもって出てこない父も、兄に伴われてやってきた。兄は地元の農協に就職して、ホッケーのアマチュアチームを結成していた。


「彗は図太いからなんとかなるよ。結局、俺じゃなくてお前が世界に行ったしな」


 兄からは、スケートを続けていることは驚かないが、世界レベルの選手になったのには未だに驚かれる。あれだけホッケーを怖がっていた彗が、と。だから今回も大丈夫だと思っていたらしい。

 しかし俺自身は、入院生活とリハビリ期間が長くなるにつれて、言いようのない不安が生まれてきていた。


 このままリハビリを続けても、前みたいに滑れる保証はどこにもない。


 季節は冬から春に変わり、初夏になった。二〇〇九年の初夏。バンクーバー五輪シーズンの始まりである。氷に乗れなくなった期間が半年を超え、限界が訪れた。


 五月の半ば、見舞いにきた舞に、布団の中から全部ぶちまけた。リハビリがきつい。五輪だってもうどうだっていい。元通りの足になりたい。兄貴はなんとかなるって言っていたけど、なんとかなるってなんだよ。そこまでして滑らなきゃいけないのかよ。

 一日だけでいいから、全部捨てて逃げたい。

 布団の中から出てこない俺に、舞は全部聞いた後、一言だけ言った。


「逃げればいいじゃん。一日だけなら、一緒に遊んであげるよ」


 次の日。本当に全部捨てて病室を飛び出した。リハビリも、これからの競技人生も、スケートにまつわる一切のものを置いて。待ち合わせは京都駅だ。俺の練習拠点は京都。舞の就職先は大阪。俺の足を慮って、舞が京都にしてくれた。


 京都駅で待ち合わせた舞も、いつものパーカーやジーンズではなかった。普段は一つに縛った茶髪を後ろに流していた。それだけでも雰囲気が違うのに、真っ白なワンピース姿の舞は、昔の映画の女優のように清楚に見えた。リボンのついたストラップシューズ。黒縁の眼鏡は無くなって、コンタクトをつけていた。普段は化粧っ気のない顔も、派手ではないが綺麗にメイクをされていた。ベージュのアイシャドウがよく似合っていた。

 一瞬見惚れた。恐る恐る声をかけると、舞は顔を崩した。


「なーんだ、もう分かっちゃったか。びっくりさせようと思ったのに」


 そういう言葉遣いだけが普段通りだった。

 街中で歩く程度には足首も膝も問題はない。映画を見に行って、祇園の方面を散策し、八坂神社をお参りして、四条河原町にある老舗のカフェに入った。普段彼女と雑談するのは、チェーンのコーヒーショップだ。話す内容だって、筋肉の質やトレーニングについて。改まって何を話したらいいかわからない。

 大学時代、練習に身が入らなかったときに多少は友人と遊び歩いたが、女の子と一対一で遊び歩くのは初めてだった。映画の内容は全く頭に入ってこなかったし、抹茶パフェの味はわからなかった。いつもならスムーズに進むはずの会話が、お互いにぎこちなかった。それでも、普通の友人とは別の……特別な女の子と二人で出かけている、そんな状態がただただ楽しかった。

 だけど頭の片隅で考えてしまっていたのは、やっぱりスケートのことだった。バンクーバー五輪に怪我を間に合わせるためには。次のプログラム構成はどうしようか。四回転は飛ぶべきか。選曲は。今の膝でスピンを回っても大丈夫なのか。そもそも、まともに滑れなくなったらどうしよう。


 全部置いてきたはずなのに、まともに滑れなくなることを恐れている。


「もう逃げたいって思ってないみたいだね」


 矛盾に気がついたのは別れ際だった。夜の京都タワーは、闇の中でぽっかり浮かんでいた。SF映画で出てきそうな形状だといつも思う。ライトアップされた京都タワーを眺めながら、隣の舞がにっこりと笑った。全てを見透かしたような顔に、なぜだか泣きたくなった。


「楽しかったよ、彗。こうして彗と遊べるのも一日だけだからさ。次会った時は元通りだからね」


 舞はそのまま振り返らなかった。茶色の髪は肩甲骨まで伸びていて、一歩遠ざかるたびに香り高く揺れた。

 呆然と後ろ姿を見送った。手が熱い。頭が軽く混乱している。胸が苦しいのに、同じぐらい心臓が高鳴っている。去っていった背中に切なさを覚えた。

 そうか、これが恋というものか。

 ……芽生えと、気付きと。スケーターとしての本性が叫んでいる。

 俺はその感情をスケートに乗せたいと思っていた。


 その一日を経て、長いリハビリ期間の末に氷上に復帰した。

 そうして出来上がったプログラムが『ローマの休日』だった。


 バンクーバー五輪には間に合った。その年の全日本選手権に優勝し、五輪代表内定を決めた。四回転の成功率は怪我前までには戻せなかったが、プログラムから抜くつもりはなかった。五輪本番では両足着氷気味でなんとか降りきり、そこからはそこにオードリー・ヘップバーン演じるアン王女がいるように滑った。少しぎこちない楽しさ。別れ際の苦しさと熱さと、誰かを愛おしいと思った気持ちも、全て幾何学模様に入れていく。


「あなたに昔言ったことを撤回しますね」


 表彰式の後、ロシアの女帝が俺の元にやってきた。金髪にそれなりに太い身体。真っ赤なルージュがトレードマークの、アレーナ・チャイコフスカヤ。


「私は先見の明がなかったようです。本当にいいスケーターになりましたね」


 いいえ、と俺は首を振るう。


「昔の話です。確かに落ち込みましたが、今はもう何も気にしていません」


 あの言葉がなければ、舞と話すこともなかったかもしれない。そうすると、フリープログラムの『ローマの休日』も作られなくて、首にかけた銅メダルだって獲得できなかった。

 解説席に座っていた憧れた人は「俺を超えてくれてありがとう」と肩を叩いてくれた。ソルトレイクシティ五輪で、堤昌親は五位入賞。それが日本人男子シングルの最高成績だった。


 憧れていた星を追い越した。

 そして二〇一二年現在。新たな星が、後ろから近づいてきていた。


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