第三話 才能という名前の呪い ーー紀ノ川彗、1998年ー2005年


 今までのフィギュアスケート人生が平坦だったか坂だらけかと問われれば、俺はそれなりに坂道も多かったなぁと間違いなく言える。でも坂道のないアスリートなんていないのだ。誰もが努力と苦悩と喜びを抱えて競技生活を送っている。その中では時折とんでもない怪我だってするけれど。


 八歳の時、五歳年上の兄に連れてこられたスケートリンク。故郷広島のリンクは、ホッケーのクラスとフィギュアのクラスの二つに分かれていた。兄は真っ直ぐにホッケーに向かい、スティックを振り回して勇敢に仲間と戦った。小さい一つのボールを争って氷の上でぶつかり合う様は、格闘技でも見ているかのようだった。

 俺は兄のようにホッケーをやる気にはなれなかった。スティックが体に当たると痛いだろう。痛いのは嫌だ。一度だけ着てみたいかつい防具も、俺が身に纏うと、貧弱な猫が鎧を着ているみたいにちぐはぐに映った。


「彗はあっちの方が似合っているよ」


 兄がそう指したのは、氷の上で図形を描く競技。時には空中を飛び、くるくると回りながら音楽に乗せて展開していく。


「上から見ると、氷にアラベスクでも描いているみたいだ。彗が描けば、きっと個性的な模様になるんじゃないかな」


 アラベスクを描く。バレエのアラベスクのポーズをとる、ではなく。そして描いたものは、純粋な美ではなく本人そのものの形になるのだろう。ホッケーという勇ましい競技をやっている割に、兄は美術に対し妙な瞳を持っていた。それは画家の父を持つ、俺と兄の共通の美意識だったのだろう。

 父のアトリエには、描きかけの絵が散らかり、いくつもの画集が本棚に並べられていた。俺は一番見惚れたのは、イスラムの幾何学模様である。

 氷の上で美しい図形を描きたい。

 いざ初めたフィギュアスケートだが、最初はスケート靴でうまく立てなくて、付き添いで来た母の腰にしがみついた。転ぶのがとにかく怖かったのだ。こうしてズボンの辺りにくっついていれば、痛い思いをすることもない。案の定、母のベルトやフェンスから手を離すと、思いっきり頭を打った。痛いのは嫌だと言ってホッケーから逃げたのに、結局痛い思いをしている。


「俺は初めて氷の上に立った時、思いっきり頭を打ったんですよね。でもそれが気持ちよかった。だって、溶ければただの水ですからね」


 長野五輪が開催された年、俺は小学六年生だった。当時十五歳だったフィギュアスケートの出場選手、堤昌親はテレビでそのように語っていた。

 彼の演技は格好良かった。今でも、憧れの選手は誰ですかと聞かれたら堤昌親と答えている。

 ホワイトリングでの彼の演技を見ながら、俺が十五歳になっても五輪には出場できないし、彼のように堂々と滑れないだろうと冷静に実感した。

 だけど、少しホッとした。


 なんだ。オリンピックに出場できるような選手も、俺と同じように頭を打つんだ。

 そう思ったら、突然転ぶのが怖くなくなった。


 滑れるようになれば、転ぶのも頭を打つのもきっと一部になるのだろう。

 幾何学模様。唐草模様。雪の結晶。降り頻る雨の波紋。音に身を乗せながら、氷の上で図形を描く。際限なく伸びていく植物のツタのように。たまには飛んで、たまには一点で回る。それだって図形の中の一つだ。

 トリプルアクセル。四回転。フィギュアスケートの花形の技といったら、この二つが出てくるだろう。イナバウアーやビールマンスピンも入るのかもしれない。

 俺はそれよりも、じっくりとステップを踏んだり、コンパルソリーを行う方が好きだった。ジャンプは一瞬で終わる。スピンも一回二十秒あるかないかだ。でもステップやスケーティングは演技の大半を構成している。どんなに高いジャンプを飛べていても、スケーティングが疎かだったら、絵だけがうまくて面白味もない漫画のようになるのだろう。

 スケーティングを覚えて、ジャンプを覚えて、国内のジュニアの大会で少しずつ勝てるようになった時。十六歳で初めて出場した二〇〇二年の世界ジュニア選手権は二位だった。今までやってきた成果が一気に現れて、ものすごく嬉しかった記憶がある。この時には、トリプルアクセルもなんとか飛べるようになっていた。

 でもこの時、こうも言われた。


「あなたの才能はここで頭打ちよ」と。


 高名なロシア人コーチ、アレーナ・チャイコフスカヤが俺のフリーを見てこう言ったのだった。彼女は何人かの五輪チャンピオン、世界チャンピオンを育てたロシアの女帝である。狭いフィギュアスケート界だ。巨匠がそういった、という事実は、SNSのない時代にもかかわらず、正確な伝言ゲームのように拡散していった。

 その点、能天気なのが日本のメディアである。

 堤昌親が世界ジュニア選手権の銀メダルに輝いたのが、一九九七年ミネアポリス大会。彼は俺と違って、中学生で長野五輪に出場し、次のソルトレイクシティ五輪では五位に入った実力者である。彼以来の世界ジュニアでのメダルなのだから、浮かれないはずがなかった。堤昌親に次ぐ、トリノ五輪代表候補、と。

 日本のメディアとフィギュアスケート界の温度差にギャップを感じ、嫌なしこりを抱えたまま俺はシニアに上がった。そして、チャイコフスカヤの予言が当たるかのように、成績が出せなくなった。周りが強すぎたのと、ちょうど採点方法が変わる過渡期だったのもあるのだろう。


 俺は才能があるのだろうか。

 チャイコフスカヤコーチのいうように、頭打ちなのだろうか。


 もともと俺は運動神経が優れているわけではない。体育で他のスポーツをやっても並以下だった。集団競技がダメなら、ホッケーだってアウトだ。他の個人競技も向いてはいない。足は遅いし体は硬い。陸上も体操も無理だ。

 そもそも、俺はアスリートに向いているのだろうか。痛いのは嫌だし朝練に行くなら寝ていたいし、六分間練習で実力者に囲まれている時点で、逃げ出したいぐらいのビビりでもある。こういう時に、ホッケーから逃げた臆病な自分が顔を出す。


「ばっかだなぁ、彗は。それでもスケートが好きなんでしょ? だったら続ければいいじゃん。好きに勝る才能なんて、あるわけないんだから。大体、才能があっても気がつかなかったり腐らせたりしたら、持っていないのと同じだよ」


 悩んでいた俺を吹き飛ばしてくれたのは、大学で出会った舞だった。練習に身の入らない日々が続いていた時期、スポーツ科学Bの授業で隣の席に座った彼女がそう言ってくれた。黒縁の眼鏡と、パーカーとジーンズ姿の地味な女の子。うなじで縛った茶髪が妙に艶があって、自分の癖のある黒髪と比べたことがある。


「才能ってさあ、伸ばせる人と腐らせる人がいるの。どんなにいい環境で練習できても、周りを顧みなかったり、自分を見つめられない人って、どんどん傲慢になって腐っていくの。だから、自分を認めて考えながらやり抜く人の方が、私は強いと思う。そうするとね、才能ないなーって思っていたものの芽が出てくるんだよ」


 目から鱗が出てきた。

 俺はこの言葉がなかったら、芽が出る前に土の中で腐っていたかもしれない。


 俺はアスリートにはなれないかもしれない。でも、紀ノ川彗という名前のフィギュアスケーターにはなれる。 

 好きという気持ちなら、誰にも負けない。


 そう思った時、「頭打ち」という呪いの言葉から初めて解放された気がした。

 二〇〇五年に初めて出場したモスクワでの世界選手権から、吐きそうなほど緊張したけれど、演技上でもいい意味で開き直れるようになった気がしている。

 ……だからトリノ五輪の内定が決まった瞬間、世界ジュニアで二位になった時なんて比べ物にならないほど嬉しかった。大学二年生で迎えた全日本選手権。全てのジャンプを決めて、初めて優勝した。


「おめでとう、これからは君の時代だよ」


 世界へ羽ばたいておいでと、憧れた人が俺の背中を押してくれた。

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