第二話 彼についての二、三の噂

 家に帰るまでが遠足です、ではないが、大会というのは出場するために空港に行く瞬間から始まっている。前に、ロシアで出場した大会で、靴を入れた荷物が別の便に行ってしまって慌て果てた記憶がある。勝負道具が手に離れた時の不安は今でも忘れるものではない。だから、靴が手元にあるとホッとする。

 ニースのホテルは居心地が良い。公式練習に行くためにホテルの廊下を歩いている時だった。部屋に戻りたくても道を間違えたのか、エレベーターを探しているのか。同じ日本代表の神原出雲がキャリーケースを引いてウロウロしていた。


「出雲、どうしたのか」


 俺の声に、細い背中が振り向いた。一瞬息を呑む。出雲を見ると、俺は何故だか人間とは違う生き物と話している気分になる。顔が異常にいいからだろう。不意に、彼の両親の顔を拝みたくなった。同じように美しいのだろうか。


「紀ノ川さん。……ええと、手洗いを探しているんですが見当たらなくて……」

「手洗いなら、そこの踊り場の目の前にあるぞ」


 そこを指差して説明しようとする。

 すると、一人の欧米系の記者がやってきた。練習前にちょっといいですか? と尋ねてくる。俺はなるべく失礼にならないように、後にしてくださいと答えた。記者は気を悪くした風も見せずに頑張ってと言って去っていく。プレスカードを見たら、アメリカの記者だった。記者の中には強引な人も多いから、少し厄介だ。


「ごめん。途中だったよね」


 大丈夫です、と言おうとしたのかもしれない。言葉にならずに、出雲は咳き込んだ。よくよく見なくても顔色が悪い。あまり大丈夫とは言い難い様子だ。水を飲んだ方がいいと薦める。咳が止んだところで、出雲が再び言葉を紡ぐ。


「紀ノ川さんは大変ですね。スターですし」

「スターって。そんないいもんじゃない。君に分けてあげたいよ」

「それは遠慮します。みんな、あなたの言葉が聞きたいんですよ」


 苦い笑いが浮かんでしまう。実力者とみなしてくれるのは嬉しいが、今でも俺はスターではない。一介のアスリート、一人のスケーター。だから過剰な期待はやめてほしい。

 勘弁してくれ、と思う。本当を言うと、記者会見やマスコミがあまり得意ではない。カメラやマイクを向けられて、今の気分は? 演技は如何でしたか? と聞かれると、穴に潜りたくなる。カメラは演技中にだけ向けて欲しい。俺の言葉はスケートだけで十分だ。だから俺の滑りから、何かの意図を読み取って欲しい。


「出雲!」


 廊下を駆けてきたのは、出雲のコーチだ。盛岡出身の長澤真一。ソルトレイクシティ五輪のフィギュアスケート男子シングル代表。ソルトレイクシティ五輪はちょうど十年前。その頃、俺は高校生で、長澤先生は二十二歳程度だったはずだ。いまが三十代前半なら、フィギュアスケート界の若手コーチの中でも、一層若さが際立つ。長身で、色が白い。瞳は大きくはないが、人が良さそうな感じのハンサムな男性だ。堤昌親と並んで、二〇〇〇年代前半まで活躍した名選手だった。


「薬はちゃんと飲んだか?」

「まだです。でも、今日は結構調子いいんです」

「その顔で何言っているんだ。約束しただろ。この薬はドーピングに入らないし、今調子いいからって油断するな」

「……わかりました」


 出雲は長澤先生の言葉に素直に頷いて、その場を離れていった。手洗いで薬を飲むのだろう。確かに、激しく咳をした後に調子がいいと言っても、なんの説得力もない。


「練習に行く途中だっただろ? 悪かったね、彗」

「いいえ。……大丈夫ですか、出雲?」


 安直に尋ねた自分に後悔する。調子の良し悪しなんて聞くものではない。自分が優位に立ちたいみたいじゃないか。


「いつものことだから、彗も気にしないで」


 頑張ってと言って、長澤先生は出雲の後を追っていく。

 俺は彼らとは反対方向に歩き出す。八回目の世界選手権。タイトルを守ることは考えてはいないが、五輪のメダリストに相応しい演技をしなくてはならない。そう思う程度に俺も緊張している。

 世間一般は俺のことをこう見ている。「バンクーバー五輪フィギュアスケート男子シングル銅メダリスト、紀ノ川彗」と。


 *


 くじ引きの結果、俺は最終グループの二番滑走になった。前後には強豪スケーターに挟まれている。俺の前は、元世界王者のフランスのフィリップ・ミルナー。俺の後は、現グランプリファイナルの王者であるカナダのスコット・ヴァミール。嫌な位置だなぁと思ってしまう。

 スコットはここ一年、驚くほど調子がいい。バンクーバーの時は習得していなかった四回転トウループを、確実な武器として扱えるのが彼の強みだ。元世界王者のフィリップ・ミルナーも、グランプリシリーズは振るわなかったが、年に一度の一番大きな試合に標準を合わせてきているのは流石だ。

 出番が近づいてきたので、トレーナーとコーチを伴って会場入りをする。足を伸ばしていたら、「アルビノーニのアダージョ」が聞こえてきていた。出雲が滑っている。頑張れと心の中でエールを送るうちに、曲が終わる。

 暫くしてバックステージのモニターを見ると、キス&クライに出雲と長澤先生が映し出される。80.24。悪くはないけど、どこか失敗したのだろうか。残り八人を残して、三位。二人で顔を合わせて、まあこんな感じかと頷き合う。出雲の呼吸が荒い。顔色が悪く、うわずった呼吸音が聞こえてきそうだった。

 彼が、喘息もちで体が弱いのは昔から知っていた。長澤先生が渡していた薬も喘息のものだろう。他の病気にはかかっていないと思いたい。そう祈っていたら、画面が切り替わって、銀盤に次滑走のチェコの選手がリンクインする。


「噂あるよね。出雲くん、長澤先生からカナダに移るって」

「はい?」


 股関節を回している時にそう言ったのは、庄司舞だ。恋人で、俺のスポーツトレーナーでもある。昨今の俺の実績の四割は彼女のお陰だと言い切れる。公私共に良きパートナーだ。

 自分で話を振ったくせに、ウォームアップの動きが止まっていると舞が俺を叱る。話しながらも、動きは止めるなと言いたいらしい。だったら演技前にこんな話を振らないでほしい。そう伝えると、ごめんごめんと言いながら舞は話を続けた。


「なんかダニーらしいよ」


 ダニーといえば、ダニー・リー。カナダの名コーチ。この大会でも存在感を放っている女子シングルのステイシー・マクレアをバンクーバー五輪の銅メダリストに育てた立役者。俺の次に演技をするスコット・ヴァミールは、バンクーバーシーズンまで彼の指導を受けていたはずだ。……そして、神原出雲の隣に座っていた長澤真一の指導者でもあった。

 繋がりがあるとしたらここだろう。長澤先生が紹介したのかもしれない。日本国内の練習環境はまだまだだ。その点、ダニーのいるトロントのリンクの環境は比べるまでもなく世界トップクラスだと聞いている。

 才能豊かな教え子をより整った環境で練習させたい。……長澤先生の意図はそんなところだろうか。


「まぁ、なんでもいいか」


 誰がどこで練習をしようが、指導を受けようが、別にいいじゃないか。それよりも俺はこれからが大変だ。なんせ、調子のいい二人に滑走順が挟まれてしまっている。誰か変わってくんないかな。嫌だろうけど。

 舞が小さく吹き出した。うなじのあたりで纏めた茶髪が揺れる。


「何だよ」

「いやー、彗もタフになったなーと思って。普通こんな話題を演技前に振られたら嫌じゃない? 振った本人がいうのもなんだけど」

「それもそうだけど。……試したのかよ」

「そーよ。いいかげん彗も氷の上の修羅場をくぐり抜けてきたんだから。これぐらいで動揺なんてしていたら、世界王者の名前に傷がつくよ」


 ぶっちゃけ俺はヘタレである。今だってスコットとフィリップに挟まれて滑るのなんて逃げ出したいぐらい嫌である。彼ら二人は強靭なアスリートだ。振り返って自分はどうだろう。彼らのようには絶対になれない。

 でも同じぐらい、スケーターとして尊敬している。

 彼らに挟まれるのなら、相応に恥ずかしくない演技をしたい。

 そう思えるぐらいには、俺もタフになったのだろう。昔と比べて。

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