第三章 発芽【2012年、紀ノ川彗】

第一話 ニースの風


 それぞれの場所に、そこにふさわしい風がある。


 今俺がいるニースは、海に近いからか穏やかに温かくて、少し生ぬるい。氷も少し温度が高い気がする。ジャンプの高さが出にくいのがその証拠だ。誰がこの場所を、今年の世界選手権の開催地に選んだのだろうか。きっと関係者が、大会が終わった後バカンスに行きたいからだ。

 去年はモスクワ、その前はトリノ、ロサンゼルス、ヨーテボリ、東京、カルガリー……。最初に出場したのはどこだ? そうだ。これもモスクワだった。二〇〇五年。緊張して吐きそうで、それでも一人で出場枠を確保しなくてはならなくて。どうにかこうにか二枠取れたのが、今でも自分の自信になっている。

 二〇一二年。今回で、八回目の世界選手権。去年のモスクワでは金メダルを獲得した。悲願でしたね、とマスコミは口を揃えた。

 金メダルを獲った去年は嬉しさもひとしおだったが、今はこういう思いだ。――こんな自分が、八回も世界の舞台に出られたのか。

 滑るのが怖かった自分。あなたの才能は打ち止めだと言われた自分。それでも氷の上で滑るのが、好きで、好きで、好きで仕方がなかった自分。滑らない自分は考えられなかった。死んでいるのと同じだ。

 背中を押してくれた人がいて、俺を導いてくれた人がいる。その人たちを思いながら、葉脈が伸びていくように滑る。

 南東から新しい風が吹いている。ほんの少しの土の匂いと、長く続いていたものを刷新するような、青々しい若葉の匂いを孕んだ風だ。


 俺はリンクサイドから彼の演技を見つめた。男子シングル、フリースケーティング。一瞬を美しく滑り、才能の迸りは隠し切れるものではない。昔の俺には全く似ていない。それが頼もしくもある。


 ……次は俺が、誰かの背中を押す番なのかもしれない。

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