第九話 ある著名なフィギュアスケートコーチの福音書 一章一節

 新拠点、新生活、それなりの成長とその結果に、インフルエンザに捻挫。

 彼にとっても私にとっても、怒涛のシーズンが幕を下ろした。


 私は出雲に帰郷を勧め、世界選手権が終わった後に、彼は一度盛岡に戻った。練習に熱心なのはいいのだが、真一とも家族とも疎遠になって欲しくはなかった。今の出雲があるのは、間違いなく彼らのおかげなのだから。元コーチの真一に現状報告し、家族と温かなひと時を過ごしてほしい。

 彼と顔を合わせたのは、五月の半ばに差し掛かった頃だった。

 来シーズンのことを話したい。何せ、次は出雲が迎える初めての五輪シーズンである。何を目指すか、何を滑るのか。どうシーズンを送っていきたいか。話すことは山ほどある。私はトロントに帰ってきた出雲を郊外のカフェに呼び寄せた。

 五月のトロントは過ごしやすい。日本の五月はほとんど夏だと真一や出雲は口を揃えていうが、ここは長袖を着ていても汗ばむことはない。春らしい春で、今日は風がないからオープンカフェで食事をするのもちょうど良い。

 ……このカフェだった。真一から初めて出雲のことを聞いたのは。席は違うが、外のテラスの心地よい風を覚えている。


「どうしたんですか?」


 昔を思い出していたら、華やかな顔がやってきた。

 久しぶりに顔を合わせる教え子に、帰郷の様子を尋ねた。盛岡はあまり変わらなかった。好物の冷麺を食べたこと。元コーチの真一は躍進を祝福してくれたこと。家族といい時間を過ごせたこと。出雲の英語は本当に上達した。日常会話には支障がない。これなら記者会見もスムーズにできるかもしれない。そうして話は次のシーズンになる。次の……五輪シーズンについて。

 彼は四回転サルコウを練習したいといい、私は快く同意した。五輪シーズンにその挑戦は難しいだろうと一瞬過ったが、彼はサルコウを滅多に失敗しない。真一は出雲が初めて習得したジャンプはサルコウだと言っていたし、これがプログラムに入れば強い武器になるだろう。


「フリーの曲について提案があるんですけど……」


 去年のラヴェルは私が決めた。今季の曲に何か提案はあるかと聞いた。そうすると出雲は、薄く笑ってiPhoneを操作する。


「これを滑ります」


 滑りたい、という願望ではなく、滑りますという決意だった。動画アプリが起動されていて、音楽が始まる。伸びやかなヴァイオリンの一音。流れてきたのは、カミーユ・サン=サーンス作曲「序奏とロンド・カプリチオーソ」だった。

 サン=サーンスの中でも「白鳥」、「死の舞踏」と並んで人気の曲だ。オペラの「カルメン」や、ラフマニノフの「ピアノ協奏曲 第二番」ほどではないが、フィギュアスケートでもそれなりに使われる。

 これでどう滑りたいのだろうか。明確なヴィジョンはあるのだろうか。私がそう尋ねると、出雲は長いまつげを伏せた。答えられないのではなく、どう答えるのか考えているような顔だった。


「俺の夢の話を聞いてくれますか?」


 私は小さく頷いた。もちろんだ。

 この子が滑っている姿をみると、たまに泣きたくなる。……アーサーの言う通りだった。そして私は、世界選手権で実際に泣いてしまった。彼の抱えている何かに触れたのだと知った。


「昔々あるところに、とても美しい男の子と、スケートの上手な女の子がいました」

 彼はそう言って私に語り出した。

 それは十年にわたる一人の少年の物語だった。


 *


 ……西の空がオレンジ色になっている。私の手元のコーヒーは温度を失って冷水と化していた。反面、心の中はどうだろう。何か温かいものが宿った気がした。


「……馬鹿馬鹿しいと思いますか?」


 全てをさらけ出した教え子に、私は首を横に振った。馬鹿げているか? とんでもない。


「ならその夢を、君は氷の上で咲かせるべきだ。オリンピックという祭典で」

「これを滑っていいんですか?」


 もちろんだと答える。教え子は、今季もよろしくお願いしますと頭を下げる。


 神は初めにことばがあったとしてこの世界を作った。ヨハネによる福音書、第一章の第一節である。初めにことばがあり、光あれと言って光を創造した。

 出雲がスケーターとして成長していく物語を聖書の世界創造と重ねてみると、こうなる。


 初めに恋があった。その思いが、スケーターとしての彼を創造したのだ。


 私は読み違えていた。彼は蝋燭ではない。静かに燃え盛る青い炎を身に宿している。炎は生まれた時から持ち合わせていて消えない。彼自身の決意というべきものだ。

 生長するのはこれからだ。養分を蓄えることを、彼はようやく終えたばかりなのだから。

 氷の上で、彼はどう咲くのだろうか。

 きっとそれは既存の花ではない。私はその花をぜひ見ていたい。

 柔らかいオレンジ色の光が、手元を照らしていた。

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