第八話 これくらいは無理に入らない


 キス&クライに座る教え子の手が小刻みに震えている。

 2013年の世界選手権。ショートプログラムは四回転トウループの着氷に失敗して転倒をした。最後の三回転ルッツからのコンビネーションは成功したが、珍しくトリプルアセルでステップアウトをした。他の動きも精彩に欠け、出雲は残り九人を残して二位になった。

 この点数では、フリーで最終グループに入るのは難しいかもしれない。

 ……モホークからの入りに警戒しているのだろうか。また演技中に転倒して捻挫してしまうのかもしれない。そう恐れているのではないか。助走のスピードが入念すぎるほど遅く、着氷は捻挫をした時と、同じような失敗の仕方だった。

 私は簡単にジャンプの入りを変えよう、と言ったことを後悔した。昔、スコットを教えていた時に、振付師を交えて、より難しいトランジッションにしたりしてプログラムをブラッシュアップさせていた。その芸当ができたのも、私が教えていた当時のスコットが四回転を跳べていなかったからだ。四回転が一つ増えるだけで、プログラムの緊張感は段違いに跳ね上がる。病み上がりに、同じように提案するべきではなかった。

 また、難しいつなぎだけではなく、タイミングや曲との同調性も重要になってくる。ラヴェルのプログラムは、スリーターンからの方が似合っていた。

 ショートが終わった後、ホテルの部屋で怪我の状態を見ながらフリーの打ち合わせをした。思ったよりも悪化していなくて安心する。それでも辛そうに顔を顰めている。ショートプログラムは十位。

「……四回転はプログラムから外すかい?」

 今の彼は、万全とは言い難い状態である。体力は戻りきっていない上に、右足を負傷している。

 私の提案に出雲は首を横に振った。

「あの人が見ているかもしれない。そんな中で、難易度を下げたみっともない演技なんて見せられない」

「あの人って誰だい?」

 出雲は顔を背けて押し黙ってしまった。これから私が何を言っても、きっと彼は折れない。折れたくないとも出国する前に言っていた。

「わかった。じゃあ、四回転を入れて、今まで通りできることを最大限やろう。それでみっともなくても、その人は絶対に君を責めない」

 横に背けた出雲の唇が震えている。今の自分が、悔しくて仕方がないのかもしれない。どうか不甲斐ないと思わないでほしい。今の君を見て、その人は抱きしめてくれるかもしれないが、笑ったりはしない。

 フリーは第三グループ、第五滑走になる。


 名前がコールされて出雲がリンク中央に向かう。たまに教え子を氷上に送り出す時、私は胃が擦り切れそうになる。直前に肉親を亡くそうが、怪我をしようが、試合の日程は待ってはくれない。コーチがいくら親身に指導をしても四分半の銀盤は一人きりだ。


 モーリス・ラヴェル作曲「ピアノ協奏曲 ト長調」。

 パアン! と鞭を打つ音からプログラムが始まる。


 いつもよりも入りのスピードが速い。怪我を案じながら、軽快に、軽快にと私は念じる。スリーターンを見て息を呑む。滑っているのは私ではないのに身構えてしまう。飛び上がった瞬間、軸が曲がった。ステップアウトしたところで、転倒をしなかっただけましだと思い直す。大丈夫。演技はまだ始まったばかりだから。


 そこからの出雲は落ち着いていた。「軽やかに」「緩急をつけて」「洒脱に」と言って指導してきたのが利いている。豪華なオーケストレーションが目立つ場面では力強いスケーティングになり、ハープやピッコロなど高音の楽器が奏でる部分は、かろやかな三回転フリップや細かいエッジワークを。シーズン序盤でもたついていたステップは、シーズン終盤での今大会では自分のものにしていた。

 彼が痛みを押し隠しているのは知っている。それでも怪我の影響を見せない、前日とは違うスケートだった。ラヴェルが指示した、「明るく、楽しげに」という音楽記号の通りの演技。姿勢の正しいキャメルスピンで、音の光をまき散らす。

 ジャンプも冒頭転倒しただけで、あとは綺麗だった。2回のトリプルアクセル(うち一つは3回転トウをつけたコンビネーション)、3回転ルッツなど難易度の高いジャンプを挟む。アドレナリンが出ているのだろうか。離氷や着氷に問題もない。……見た目は問題がないが、リンクサイドから見ている私は、捻挫した足に負担が影響が出ているのではないかひやひやする。


 演技が中盤のステップシークエンスを終えて、最後のジャンプになる時だった。最後のジャンプは三回転ルッツ+二回転トウループの予定だった。……が、何かが違う。ルッツの時はこんなに速くならない。何をするかその軌道でわかった。左足でスーッと滑って、足首をクイっと回す。彼のジャンプで、飛び上がる直前のステップがモホークからのジャンプはひとつしかない。

 気が付いた私が身を乗り出すのと、出雲の左足のトウが氷を抉るのはほぼ同時だった。待ちなさい、そこで飛び直すな!

 嫌なイメージが脳裏を突いた。

 背中は真っ直ぐだった。飛び上がったのちに、体を捻らせて回転が始まる。高さは十分。飛距離も十分。回転軸がハープの音と重なる。どこまでもエアリーなのに、四回回った着氷は紙を裂くような鋭さがあった。その足で二回転トウループに繋げる。

 観客の歓声をよそに、私は腰が抜けるかと思った。冒頭に失敗したジャンプの飛び直し。それも、きちんとコンビネーションジャンプにして。あれが単独のジャンプだったら減点どころか無得点になってしまう。少しでも多くの点を獲得する。そんな冷静さも持ち合わせていた。

 全てのジャンプを跳び終えて、フィナーレに向かうコレオグラフィックシークエンス。空中で何かの手を取って、それに向かって笑顔を返す。滑るのが楽しくて仕方がない、という顔ではない。彼は、氷の上にいる誰かの手を取るのを臨んでいる。みっともないところは見せられないと自ら語った誰か。


 ――泣きたくなるんだよ。彼の演技を見ると。たまに胸が詰まる。あれは誰かに恋をしているよね。


 夏に聞いたアーサー・コランスキーの言葉が、何故だかよみがえる。


 演技を終えて、戻ってきた教え子を私は抱き寄せた。出雲の体から力が抜ける。見事だ、とか、よくやったと言おうとしてやめる。冒頭の四回転以外は何も問題がなかった。いいものを見せてもらった? 違う。もっとふさわしい言葉がある気がするが、なぜだか見つからない。私は彼に何を言うべきなのだろうか。

 これが、胸が詰まるということか。

「……どうしてダニーが泣いているんですか?」

「泣いてはいない。君の顔の汗が、私の顔についただけだ」

 私は嘘をつき、出雲は微笑んで私の嘘を見抜いた。

「少し無理をしました。……約束を破ってしまいましたね」

 本当は、こんな無理をするなと言いたかった。怪我をした中で、前日に転倒したジャンプの飛びなおし。それだけではなく、演技そのものも。こんな無茶をする奴がどこにいるのかと。

 しかし同じぐらい勝負に出なければならないときがあると、私は知っている。結果、ライバル、来季の出場枠。それだけではなく、己に打ち勝たなければならない時。

「大丈夫。これぐらいは無理に入らない」

 この子は、弱い自分に少しでも打ち勝ちたかったのかもしれない。みっともないところは見せられないと言った人に、少しでも強くなったのだと言いたかったのかもしれない。

 私の言葉を聞いた出雲は、そこでようやく顔をゆがませて、足が痛いと呟いた。アドレナリンが切れて、痛みがよみがえってきたのだろう。早く靴を脱がせたかったが、その前に見なくてはならないものがある。

 すべてを出し切った出雲と共にキス&クライに座る。結果を知らせるアナウンスが入り、観客席から歓声が上がった。


 ショートプログラム十位。フリースケーティングは五位。

 総合成績は七位になった。


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