第七話 棄権か否か。
欠場した四大陸選手権の男子シングルは、私の元教え子のスコット・ヴァミールが三連覇を果たした。二位はネイト・コリンズで、三位にはジュニアから出場した中国のチャン・ロンが入った。地元日本勢は調子がいまいちで、エースの紀ノ川彗は五位に止まった。
出場するはずだった大会の様子を、出雲は病室のテレビで観戦した。私はステイシーの試合の帯同のために、開催地の大阪に向かった。女子シングルで、ステイシーは三位になった。
私が今と昔の教え子の活躍を讃えてトロントに戻ると、出雲はスコットの深いスケーティングに目を奪われていた。動けない間、モニター越しに改めて見て、質の高さを再認識したようだ。熱も下がり切って、早く練習をしたそうな顔をした。
幸いにもインフルエンザは悪化することなく、二週間の療養期間を経て、出雲は二月の半ばに練習に復帰した。
今年の世界選手権は例年より早く、三月の半ばに開催される。
氷上で練習できない期間が長くなったので、急にジャンプの練習をさせなかった。滑りの勘と、失われた体力と落ち切ってしまった筋力を取り戻すために、スケーティングの練習時間を一時間から二時間に伸ばした。
普段出雲は、移動の際にマスクを欠かすことなく顔につけている。冷たい空気を肺に入れないための彼なりの工夫だ。対策を取っていたのにインフルエンザに罹ってしまったのが、多少はショックだったようだ。
「ちょっと焦ります。自分の不注意とはいえ、二週間も休んでしまったから」
「誰だって体調がすぐれないことはある。気に病んではいけない」
ここで体調を崩してしまったショックで練習に身が入らない、なんてことがあってはいけない。これからの練習により一層励めばいいだけだ。場所はカナダロンドン。北欧の小国や日本ではない。移動が国内なのがありがたかった。
右足首の捻挫はそう思っていた矢先の出来事だった。
出雲は、一旦筋力が落ち切ってしまうと、元に戻すのに時間がかかるタイプらしい。スケーティングの時間を増やしつつ、ジャンプ練習も再開させた。トウループの踏切の欠点もだいぶ改善された。
四回転トウループは、ショートではモホーク、フリーではスリーターンとジャンプの入りのステップが違う。どちらとも苦手ではないが、加点のつき方がショートとフリーで、0.5点も違う。ジャッジスコアを見ると、ショートの方が加点が高かった。
そこでフリーのジャンプを同じようにモホークから入ってみようと思った。大した差ではないが、0.5点でも欲しい時はある。これは、ジャンプコーチのマリオと出雲を交えて決めた。
そうしてプログラムの通し練習を始め……冒頭の四回転の着氷に失敗をして、転倒をした。踏ん張り切れなかったのだ。足首が曲がる。いつもはぐっと力が入るはずの右腿の筋肉が働いていなかった。
すぐに立ち上がれない出雲に、私は暗い予感を覚えた。ラヴェルの軽快な音楽が、私たちに構わずに流れていく。出雲はゆっくりと身を起こし、右足を引きずりながら、リンクサイドにいる私の元にやってくる。
「どうした?」
「……右足首が、変で」
私は椅子に座らせて、靴を脱ぐように指示をした。靴紐を解き、靴下を脱いで、現れた白い足はグロテスクに腫れ上がっていた。
世界選手権は十日後に差し迫っていた。
棄権するか、否か。私の頭にはそればかりが回っていた。
私としては棄権させたかった。見たかぎり、決して軽くはない捻挫だ。後一週間しか調整期間がない中、怪我の様子を見つつ、体力を戻す。それがこの子にできるのだろうか。
日本スケート連盟が確実に欲しいのは、来季の出場枠だ。この世界選手権の結果で、ソチオリンピックの代表枠が決まる。出雲と彗が出れば、最大枠の「3」は堅いだろう。だが、私としては、枠取りのために出場なんてさせたくはなかった。この怪我で代表枠のプレッシャーは大きいだろう。
その反面、この試合は出るべきだと訴えている私がいる。軽くはなくても、たかが捻挫でもある。足の骨が折れたわけでも、ヒビが入ったわけでもない。無理をするなと出雲にいつも言っているが、この捻挫は無理の範疇には入らないのではないか。それに怪我がよくなって大会に間に合う可能性もある。
私は素直な気持ちを出雲に伝えた。私が迷っていても、結局はドクターストップにならない限り、決めるのは出雲だ。
「出たいです。この大会がソチ五輪に繋がるかもしれない。ここで折れてしまいたくはありません」
アイシングを患部に当てながら、出雲は強く答えた。
私はどこかで、教え子がそう答えてくれるのを望んでいた。
結局、怪我の調子はあまり良くはならずに大会を迎えることになり、ドーピングに引っかからない痛み止めを飲みながらショートプログラムの日になった。
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