第六話 それでも私は滑り続ける
十二月末の全日本選手権のあと、出雲は三週間ほど日本で過ごした。ニューイヤーから数週間、日本では束の間のアイスショーシーズンになる。スターズ・オン・アイスのジャパンツアーや、日本独自のショーに、ワールドや四大陸選手権などの世界大会に選ばれたアマチュアの選手が招待されるのである。日本ではプロスケーターよりも、アマチュアスケーターの方が需要がある。開催されるショーも、アマチュアが主体のショーの方が多い。特に、全日本で結果を出した選手はテレビタレントのようにショーに招待される。
いくつかのショーに出演してトロントに帰ってきた時、街は真冬になっていた。
出雲がトロントで過ごす初めての冬である。
四大陸選手権を間近に控えたその日、いつものように出雲が九時にクラブにやってくると、ダウンジャケットは雪まみれで、顔に至っては青いを通り越して雪とどっちが白いだろうと競わせたくなるほど色をなくしていた。
車の免許を持っていない彼は、借りているアパートから地下鉄でクラブまでやってくる。駅まで歩いて地下鉄に乗り、駅からスケートリンクまでは歩いて五分。
彼の地元の冬が、どれだけ冷え込むかは知らない。雪が降るし冷たい風が吹くとも言っていた。だが、ここでの冬は想像を絶したのかもしれない。マイナス二十度まで行くこともざらにある。晴れた日でも太陽の力は当てにならない。快晴の日に異常に冷え込むなんてしょっちゅうだ。雪はあまり降らないが、降ったら降るだけ積もる大雪になる場合が多い。そして、雪が溶け出しても道は凍結の恐れがある。
その日々が続くのがトロントの冬である。今日のトロントは、あまり降らないはずの雪が――それも大雪が降る日だった。
四十数年もトロントで生きていれば、その日にどういう格好をすればいいのか肌でわかる。雪山用のダウンジャケット。靴下とズボンは二重に履いて。ヒートテックは必需品。靴の裏に溝が深く入ったロングブーツで街を歩く。凍結して足を滑らせる事故があるからだ。
外がそんな様子なので、室内の暖房設備は半袖でも過ごせるぐらい整っている。外から帰ってきたら二枚ばきの靴下など熱いだけだ。
顔面は色がなかったけれど、ウォームアップをしているうちに体が温まればいいと思った。リンク以外の暖房設備は完璧だ。
……最初に変化に気がついたのは出雲にとっては意外かもしれないが、私にとっては当然の人物だった。
「ダニー、ちょっときて。様子がおかしい」
スケーティングの練習の後、各々が練習に臨むのだが、少しの間休憩を挟む生徒もいる。その時にステイシーが切羽詰まった顔で私の元にやってきた。エメラルドグリーンの瞳が困惑しているのは珍しい。言葉を省略していて、様子がおかしい対象を私に教えていない。
「誰の様子がおかしいの? アーサー? また女の子を口説いているの?」
「違う。出雲。もしかしたらやばいかも」
出雲は休憩室のソファに座って項垂れていた。彼がここにいるのは珍しい。休憩はいつもロビーでとっている。
「いつもここを使わないし、行かないのかってさっき聞いたんだけど……」
不明瞭な答えしか返ってこなかったようだ。呼吸が荒い。私は出雲の両肩に手を置いて、ソファの背もたれに寄り掛からせた。
……額に手を当てると、信じられないぐらい熱かった。
「出雲、ちょっと私の手を強く握ってみて」
ステイシーは出雲に自分の手を取らせて言った。見ているだけの私がわかるぐらい、握っているのか触れ合っているだけなのかわからないほど弱々しかった。まったく力が入らないのだ。
一瞬で、ステイシーの顔が強張った。
「今すぐ病院に行きましょう。ダニー、車出せる? それか救急車を呼んで」
「……でも練習は……」
「ダメに決まっているでしょうが! あんた、インフルエンザの可能性があるの!」
私が却下する前に、ステイシーの怒声が出雲の言葉を遮った。ぼうっとしながらも、その単語をうまく飲み込めない顔をしていた。私はスマートフォンで救急車を呼び、医務室のベッドを整えた。救急車が来るまでの時間でも、横になって休むべきだ。何せこの雪だ。やってくるまで時間がかかるだろう。
私は残りのスタッフにその場を任せて病院に付き添った。流石にこの状態で一人にはさせられない。幸いにも、このクラブにはマリオをはじめとして優秀なコーチが複数存在している。私一人病院に行ったところで、大した問題ではない。
医師の診断は、ステイシーの見立て通り、A型インフルエンザだった。
さらに喘息の持病もあるから、二週間は練習をしないようにと医者からはストップがかかった。四大陸選手権は二月六日からスタートだ。地元日本での大会だが、これには欠場せざるを得ないだろう。
ベッドの傍で付き添っていると、練習が終わったステイシーがやってきた。黒いマスクに完全防備姿。彼女も試合を控えている。出雲が出場する予定だった四大陸選手権のカナダ代表。
「動かないで。そう言ってもどうせ動けないんでしょうから、そのまま寝ていなさい」
ステイシーはベッドのサイドテーブルにスーパーの袋を置いた。中を覗くと、小さいサイズのアイスクリームのカップと、リンゴジュースのペットボトルが入っていた。彼女なりのお見舞いらしい。マリオからメールも入っていたが、一応ステイシーも私に報告にきたようだ。リンクは換気をして、その場にいた全員に手洗いとうがいを促したこと。今のところ誰にもうつってはいなさそうなところ。練習は滞りなく行われたこと。
「私はインフルエンザで弟を亡くしている」
初めて聞いたのだろう。ベッドで横たわる出雲は静かに目を見開いた。
「あなたは体が弱いんだから、絶対に甘くみてはダメ。それだけを言いにきた」
お大事に、と言い残して、ステイシーは病室から出て行った。
「……今の話、本当ですか?」
私は彼の問いに静かに頷いた。
「あの子も辛い思いをしている。だから君の変化に気がつけた」
ステイシーの弟が亡くなったのは、二〇一〇年一月の末だった。
弟のアダムはステイシーと五つ離れていて、このクラブのキッズクラスに在籍していた。姉と同じ色の淡い茶髪で、姉さんのようなスケーターになりたいと言っていたのを覚えている。
アダムが死んだのは本当に突然だった。倒れて、インフルエンザと診断され、高熱にうなされた後に亡くなった。一日か二日の出来事だった。
彼女は当時十七歳。バンクーバー五輪のフィギュアスケート女子シングルの代表に選ばれていた。
その時のステイシーは見ていられなかった。いつもは気丈でユーモア溢れるステイシーが、口を押さえて涙を流している。葬式はバンクーバー五輪の女子シングルが始まる三週間前に行われた。小さな教会で、親族と私以外誰も集めなかった。棺の小ささがいっそう悲痛だった。
私は当時指導をしていたスコット・ヴァミールの練習を見ながら、できる限りのマスコミ、メディア、新聞をシャットアウトした。司式を取り行った神父にも何も言わぬよう願い出た。弟を亡くした直後なのに、彼女は五輪で強烈な注目を集めなくてはならなくなる。それは相当のストレスになる。マスコミというのはいつだって、有名人、タレント、アスリート、アーティストの下世話な話題を探している。パパラッチが追い回したイギリスのダイアナ妃の悲劇のように。オリンピック代表選手の弟が亡くなったという事実が、マスコミの報道熱を煽りかねない。まだ若い彼女の心に、一生消えない傷を残す恐れがあった。
私は、滑るのが辛かったら代表を返上してもいいんだよとステイシーに言った。オリンピックはまた四年後にある。四年後なら二十一歳。まだチャンスはある。
……私のその言葉が、逆に彼女の心に火をつけた。
「死人は語らない。でもアダムは滑ることを望んでいる。私も同じ気持ちよ」
彼女は頭を上げて滑り始めた。
そうして彼女は、五輪で素晴らしい演技を披露した。特にフリーは今思い出しても私は目頭が熱くなる。曲は映画「ムーラン・ルージュ」のサウンドトラック。三回転+三回転のコンビネーションを含む、すべてのジャンプを完璧に決めた。彼女が滑るとニコール・キッドマンが歌っているように見えた。
それでもショーは続けていくと高らかに歌う。
誰にも文句のつけようのない演技を見せた彼女は、表彰式で首にかけられたブロンズメダルを弟に捧げた。
「だからね、決して無理はしてはいけない。滑れなくなるのはまだいい。下手をしたら死んでしまうかもしれないからね。死んでしまったら、君の夢も何も果たせない」
気丈に演技を果たしたステイシーも、決して強いわけではない。心身の状態は滑りに確実に影響を及ぼす。彼女は弟が亡くなって十日は練習に来られなかった。だけど、あそこで無理をさせたら、ステイシーは取り返しのつかない怪我をしてしまったかもしれない。
私の言葉を、出雲は目を閉じて聞いた。全日本選手権での代表争いのプレッシャー、年明けに出演した複数のアイスショー、日本からカナダへの移動、トロントの極寒の気候などが、彼の体に負担をかけたのだろう。
今は何も考えずに休んで欲しかった。
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