第五話 雪と氷の宮殿にて


 グランプリシリーズは成績的にも体調的にも出雲は好調だった。北京の気候は日本とあまり変わらず、続く日本大会の開催地は東京である。シリーズでの成績は、中国大会で二位の、日本大会では同じく二位。これにより、ソチ五輪の試験大会であるグランプリファイナルへと駒を進めた。


 表彰台に上がる得点のボーダーとして、シニアの男子シングルでは、ショートプログラムは90点以上、フリースケーティングは170点以上が求められる。

 滑りの質は全体の演技を底上げしてくれる。出雲は、去年のショートプログラムの最高点は、84.77。フリーは173.52だった。それが今季はショートでもフリーでも点数を5点以上伸ばせた。シーズン前半の現時点で、だ。私はその成長を喜ばしく受け止めていた。


 ソチのアイスバーグ・スケート・パレスは名前の通り氷の宮殿のようだ。ガラス張りの外観は夜になると幻想的な光を灯す。ブルーを基調としたリンクサイドに、対比する純白のリンク。雪と氷で作られたように美しいこの宮殿は、ロシアが国家の威信をかけて五輪のために着工したリンクである。


 公式練習中も、ショートプログラムの六分練習中も、出雲は真新しいスケートリンクに見惚れていた。現実感のない顔をしている。シリーズを勝ち抜いた六人の中に入っているのも、原因の一つだろう。昨シーズンは出場を逃した大会だ。自分はトップスケーターの中に入っている、という喜び。

 それではいけない。今回のファイナルは通過点だ。


「夢を見ているような顔だね。でも、ここで満足していては困る。再来年の二月には、ここで滑るのだから」


 演技前に柔らかく諭す。白いブラウスに黒のスラックス。シンプルな衣装にしたのは、スケーティングの成長具合をジャッジにアピールするためでもある。


「いいかい? 肩の位置に気をつけて。それから、滑っている時に必要以上に猫背になってはいけないよ」


 六分間練習も終わって、競技が進み、出雲の出番になる。

 彼が位置について、氷の宮殿に流れるのはチェロの音色。


 ショートプログラムはフェリックス・メンデルスゾーン作曲「無言歌」。作品番号109。


 滑り出し、私はリンクサイドに手をつきながら演技を見つめた。始まりはいい。チェロとピアノが曖昧にとろけるような音の中、よく滑っている。最初のジャンプは四回転トウループだ。フリーではスリーターンから入るそのジャンプを、このプログラムではモホークから入る。足首がクイっと動いて、テイクオフの姿勢になる。

 ……ああ、ここで少し背中が丸まった。あとで修正しないといけない。左足のトウを突く。氷から体が離れた瞬間、体の捻りはなかった。よし。よし。思わず私も頷いた。着氷の際、フリーレッグが四十五度に伸びる。静かな着氷だ。そうだ、このプログラムでは、ジャンプの着氷の際、足をピンとつま先を高く上げない。曲にそぐわない行為は避けるべきなのだ。

 チェロの音色は深い。ピアノはチェロの音と深く絡まりつつも、水面に映る光のように輝かしい瞬間がある。一体化を目指しつつも互いの主張をやめない。そこにスケートが加わる。どこからが音でどこからが滑りなのか、わからなくなるぐらいの一体化を目指す。動きは悪くはない。ジャンプも、スピンも。出雲本人はガーシュウィンよりこちらの無言歌の方が滑りやすそうだ。チェロの音に後押しされて、スケートがよく伸びていく。背中を少し反らせたイナバウアーから、僅かに助走を入れてトリプルアクセル。これはグレイトだ。私は飛び跳ねて拍手を送った。観客席から歓声も上がる。加点も、2点以上もらえるかもしれない。スピンはフライングから入るキャメルで、グッと背中を反らせてドーナツスピンにする。回転が一回一回わかるように丁寧に回る。チェロの音に合わせて。……そうそうそう、スピンを解くときも、決して雑な動きにならないように。


「悪くなかった。だけど、思わず力を入れてみちゃったよ」


 演技を終えて戻ってきた出雲と抱き合う。演技自体は、シーズン序盤でここまで滑れるのは上出来、という出来だ。キス&クライに座ると、彼の演技と……。


「ダニー……。この時、何をしていましたか?」


 同じぐらい、リンクサイドの私の様子が映し出されていた。猫背になって顔を顰める私。トリプルアクセルが決まって飛び跳ねる私。……出雲がこの時、と聞いた時の私は、リンクサイドに手をついて、ステップシークエンスの時の、ターンやステップの種類を数えていた。モホーク、シャッセ、ループにツイヅルをして、バックインから……。と。演技の時、正確にプログラムが実施されているかどうかを見るのも、私の役割だ。出雲の疑問には答えずに、ただ笑ってごまかしていると、点数を告げるアナウンスが入る。

 表示された数字を見て、私と出雲は顔を見合わせて喜んだ。


 92.28。


 ファイナルはシーズン前半の一番大きな大会だ。世界選手権までにプログラムが完成していればいい。

 それでも残り四人を残して、この点数は大きい。日本のエースの紀ノ川彗にも、現世界王者のスコットにも、プレッシャーを与えることだろう。

 翌日のフリーに繋げるような、そんな演技になった。


 *


 フリーも多少問題はあったが大きな失敗はなく、一位のスコット、二位のアメリカのネイト・コリンズに次いで三位になった。日本の先輩スケーターである紀ノ川彗よりも順位が上だったのはこの時が初めてで、グランプリファイナルの表彰台に立ったのも初めてだった。結果に満足をし、二週間後の全日本選手権はその勢いに乗って初めてチャンピオンに輝いた。

 全日本は、四大陸選手権や世界選手権などの代表に選出されるか、その争いの場にもなる。優勝した出雲は、二月頭の四大陸選手権、及び三月半ばの世界選手権の代表に選ばれた。

 充実した練習と付随する結果。私と出雲は順風満帆にシーズンを進めていた。十二月の末までは。


 問題は年を明けて一月末日にやってきた。

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