第四話 スケーティング・スタディ(トロント編)


 シーズンオフは順調に過ぎていった。練習の最初は、私が氷上で基礎スケーティングのトレーニングを一時間たっぷり行う。これはアーサーやステイシーなどの、所属するスケーター全員が参加するものだ。それから、月曜日はジャンプを主に。水曜日はフリーの通し練習を主にと、非生産的な練習をしないようにさせた。

 出雲はジャンプを重点的に練習しようとしていた。それもそのはずだ。今の男子シングルの流れは、ショートでもフリーでも最低一回は四回転を導入しないと、最終グループに入っていけない。表彰台に上がるための必要な一手だ。


 しかし、私は基礎スケーティングにもっと力をいれたかった。彼のように体の弱い選手は、パワーレスにジャンプを飛ぶために上質なスケーティングを手に入れる必要があるからだ。スタミナは大事だし、もっとつけさせたい。だが、スタミナを無駄に使わない方法にこそ、鍵がある。それを身につければ、もっとジャンプが上手く飛べるようになる――。私がそう説くと、出雲は納得してくれた。


 日に日に良くなる出雲のスケーティングは、光合成を行なって鮮やかな緑になる蔓のようだった。土台を作ってくれた神月美里や真一の賜物だ。土壌が豊かでなければ、育つものも育たない。

 休養日には、アーサーと遊びに行ったり、アーサーやステイシーの家に訪ねることも増えたようだ。アーサーはあれで料理好きで、付き合っている女性に手料理を振る舞うこともあるらしい。ボルシチが美味しかったと出雲は語っていた。ステイシーは愛犬家で、ターシャという名前のコーギーと、アンという名前のマルチーズを飼っている。コーギーに顔を舐められている出雲の写真をステイシーが見せてくれた。ここでの生活の充実を物語っているようで、私は嬉しくなる。


 私ともたまに教会に行った。シャーロットはいたく気に入って、私に家に連れてくるように進言した。私たち夫婦には子供がいない。妻は私の教え子を、自分の子供のように可愛がる癖があるのだ。一時期のステイシーや私の元にいた頃のスコットなど、よく家に招いたものだ。


「でも彼、変わっているよね」


 アーサーがストレッチをしながら私に話をかけてきた。

 シーズン初戦前の九月。私と出雲の初めての試合は、北欧フィンランドのエスボーで行われるフィンランディア杯だ。ジュニアであるアーサーの大会はもう始まっていて、先日のジュニアグランプリの大会で三位に入っていた。


「この間、俺とドリーとダブルデートしないかって出雲に聞いたんだけど、そういうのはいいって首を横に振るんだ」


 タバサとは別れたようで、アーサーには新しいステディができていた。円満に交際関係を終了できたのかは気になるが、それは彼の人生だ。元恋人に後ろからナイフで刺されても本望なのかもしれない。それよりも。


「そういうのはいい?」


 そういうの。つまり、女性と付き合ったり、誰かを好きになったりすることだ。

 出雲も十代の少年である。男だろうが女だろうが、対象が異性だろうが同性だろうが、気になる相手ができる年頃である。十代の頃の自分を思い出してみると、確かに心惹かれる女性がいたものだ。

 日本ではどうだかはわからないが、カナダにはスケーターが恋をしてはいけないなんていう馬鹿げた法律はない。オフィスでは仕事関係や業務を円満に行うために恋愛を禁止している企業もあるらしいが、私はあまり賛同したくない。人が人を好きになるのは自然な流れで、それで問題が起きるような企業も大した場所ではない。フィギュアスケートのように己を表現するようなスポーツは、恋愛だって重要なファクターだ。


「でも、恋愛に興味ないわけじゃないっぽいんだよね。スマートフォンの写真を幸せそうに眺めているし」

「アーサーはどうしてそんなに出雲のことが気になるんだい?」


 アーサーは背中を大きくのけぞらせた。昔と比べて随分柔らかくなったな、と思いながら尋ねてみる。彼の体と出雲の体は真逆だ。体格もだが、筋肉の構造が根本的に違う。出雲の筋肉はしなやかで柔らかく、女子選手に近い。アーサーの筋肉はがっしりしていて、男子シングルだけではなくペアの男子スケーターにも向いている。


「だって必死じゃないか。彼の滑りは、誰かに恋をしているよね。たまに泣きたくなるんだよ、出雲の滑りを見ると。胸が詰まる」


 恋多き少年は出雲の滑りをそう評した。

 私がアーサーの勘が正しかったと知るのは、のちのことである。



 フィンランディア杯は、結果だけ言えば、ヨーロッパ圏内の実力者に混じって出雲はよく戦った。シニア三年目にして、初めて表彰台の中央に立ったのだ。嬉しくないはずがなかった。


 だが試合が終わった直後、慣れないフィンランドの空気に体が悲鳴をあげたのか、出雲はホテルに帰った後に寝込んでしまった。エキシビションは欠場し、熱が完全に下がり切ってから私たちはトロントに戻った。

 彼を指導するということは、こういうこともある。事前に聞かされるのと、実際に遭遇するのとでは意味合いが違う。

 私は現地入りから、公式練習、六分練習、六分練習後のバックヤードでの体の温め方、試合中の演技、クールダウンまでの、大会に関する流れを全て思い出してみた。


「もっと洒脱に滑ろう」


 フリーのプログラムは、ラヴェルのピアノ協奏曲にした。ピッコロやオーボエの音が光を撒き散らす、心躍る楽曲だ。

 今まで美里――出雲の最初の指導者で振付師である――が作成した彼のプログラムは、彼自身の美しさを体現するような旋律や、ドラマティックに魅せる作品が多かった。昨季の「アルビノーニのアダージョ」、「ライフ・イズ・ビューティフル」、ジュニア二年目の「浜辺の歌」が例として挙げられるだろう。


 今季はそうとは違う、別のアプローチをしたかった。彼もシニアに上がって三シーズン目だ。ドラマティックさは、滑りの欠点を隠してしまうことも多々ある。欠点を補うプログラムももちろん大事だが、欠点を克服した上で、もっとジャッジが唸るような玄人好みの滑りを目指すべきだ。

 しかしフィンランディア杯での出雲の滑りは、全てが一杯一杯で、軽快さに欠けていた。これでは、ラヴェルを選んだ意味がない。ちょっとした間、抜くべき力の場所、そこに意識を持っていければ、プログラムは劇的に変わる。


「プログラムの中の自分の力を、もっとコントロールするべきだ。力を抜いて、みせるべきところは見せて。メリハリを付けて滑らなければ、みる方も疲れてしまう」


 帰国後、プログラム練習の時に一言加えた。

 最初彼は、よくわからないという顔をした。

 そこで私は、まずピッコロの音だけを拾って出雲に聴かせ、自分で滑ってみせた。トウを使って軽く飛び、左足のエッジをイン、アウト、イン、アウト、と切り替えて、カウンターから素早く逆回転のツイヅル。ここをピアノで言うところのグリッサンドのように軽く滑る。逆回転のツイヅルは要練習だ。この回転にもたついたら格好が悪い。湖上の白鳥が必死でバタ足を隠すように、観客やジャッジが見たいのは必死で演じる努力の結晶ではない。努力の結晶が昇華された、美しい技術や表現だ。

 これは私の私見だが、二〇〇四年に現在の採点法に変わったとき、ステップは「より深く、より多く正確に踏めているか」が重点的に見られるようになった。反面、細かくスピーディなエッジ捌きを実施する選手は減ったように思う。レベルが取れないからだ。今のルールでは、ステップやスピンはレベルで評価されるようになった。

 しかし深いエッジのステップにはその魅力があるように、スピーディなエッジワークには別の魅力があるのだ。そこをプログラムに入れていきたい。観客は気がつかなくても、ジャッジは絶対に注目してくれる。


「ここの音を表現するとき、力が入ってしまうと台無しだろう? 軽快な音には、スケート上でも深く滑りながらスッと力を抜く。そうすると、見る側も安心する」

「……なるほど」


 彼は練習でも試合でも常に全力だ。力を抜いて滑るのに慣れさせるのに、時間がかかるだろう。

 また、日本では九月は残暑が厳しい盛りだったが、フィンランドはすっかり秋に変わっていた。トロントの九月もそこまで冷え込まない。出雲の地元の盛岡やトロントと比べると、エスポ―の気温は低かっただろう。冬に近づき始めた北欧の気候が、彼の体に刺激を与えたのは確かだ。

 今までも開催地の気候や体調には充分気をつけていただろう。これからは気をつけるだけではなく、より具体的に対策を講じなくてはならない。


「出雲を指導している時のダニーはちょっと楽しそうね」


 そう言ってきたのはもう一人の教え子のステイシー・マクレアだ。ミルクティー色のボブカットに、発達した背中を持つ。今は彼女とプログラムの調整をしていた。一方の出雲は、マリオとジャンプの修正を行っている。トウループの踏切はだいぶ改善されていた。ステイシーの初戦はグランプリシリーズのカナダ大会。出雲の次の試合は中国大会。一週間続きで教え子が別の大会に出るのは珍しくはない。


「まぁ、手間のかかる子は可愛いくて、手間のかからない子は信頼しているからね」

「そうしたら私は、手間のかかる子ね」


 ステイシーと私は顔を合わせて笑う。もちろん二人とも信頼しているし、可愛いという意味だ。そういう意味が伝わらないステイシーではない。私は彼女が十六歳でシニアに上がってから、一緒に練習を重ねてきた。今の出雲と同じぐらい手間がかかったし、今では信頼する選手の一人だ。


 出雲と一緒に受け持つのがステイシーで良かった。彼女は二十歳になった大人のスケーターだ。氷上の修羅場をいくつも経験している。彼にいい影響を与えてくれるに違いない。



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