第二話 トロントFSCにようこそ


 氷上での一日の練習時間は四時間。それ以外に、筋肉トレーニング、ランニング、ピラティスやストレッチなどを入れる。これらは練習ではない。練習や試合のための、土台作りだ。膝や背中が柔らかくなければ、シットスピンすら困難になる。氷上で行うあらゆる動きは、体のすべての部分が連動している。綺麗なスケーティングは基本中の基本。流れるように。パティシエがパレットナイフで淀みなく操れる上質なチョコレートのように、よく訓練され、かつ上品なものでなくてはならない。

 午前十一時のリンク。私の教え子が、二人、リンクで練習を重ねている。一人はステイシー・マクレア。カナダの女子シングルのエースである彼女は、振付師のマーサと、今季のプログラムについて打ち合わせをしている。彼女に対しては、何も問題がないだろう。彼女と師弟関係を結んで数年経ったが、もはや揺らがない信頼が私たちの間で出来上がっている。

 問題はもう一人だ。


「あれって出雲? 何、ダニーは彼のコーチになったの?」


 鳶色の瞳をまん丸にさせながら、一人の少年が私に尋ねてきた。金髪で鳶色の瞳の、堀の深い顔立ち。均整の取れた身体とギリシャ彫刻のような顔を持つ美少年は、ここで練習する生徒のアーサー・コランスキーだ。

 久しぶりに私と顔を合わせた彼は、簡単に尋ねていいのかわからない案件を顔に貼り付けていた。アーサーは一週間前、父母の祖国から帰ってきた。彼の父母はロシアのサンクトペテルブルク生まれだが、息子であるアーサーが産まれたあとカナダに移住した。だから、彼にとっては生まれて以来の祖国への帰郷だった。このリンクに顔を出すのも実に二ヶ月ぶりになる。国籍はカナダだが、血筋的にはロシア人だ。この国では珍しくもなんともない。


「先月から練習しているよ。まぁ、こちらの環境に慣れない事ばかりだから、色々気をかけてやってくれ」

「りょーかい!」

「ところでさっきから気になっていたんだけど。右頬が赤いのは何で?」


 ロシア人らしい白皙の肌に、赤い手形がくっきりと残っていた。見た目は大変痛々しいが、本人はいたってけろっとしている。


「ああ。これ? 来る途中でタバサにばったりあって、昨日ドリーとデートしてたのバレちゃったみたいでさ。結構効いたよ、これ。『あたしとドリーのどっちが大事なの!』なんてセリフ、初めて聞いた」

「……それはちゃんと謝ったの?」

「勿論。明日デートで、最後までしてくれたら許してあげるって言われた」


 あっけらかんと修羅場を語った。これが十五歳の少年の言葉とは思えない。トロントに戻って初めてのデートが彼女ではない人間だったのだろうかという疑問や、十五歳でそれは早いという苦言が喉元から出掛かった。いささか女好きな傾向があるが、彼のような花に群がる蝶もまた多いのだろう。これが男子に対する表現として正しいかどうかはわからない。

 私はアーサーのロシア帰郷の話を聞きながらしながら、リンクにいる出雲の動きを追っていた。父母が昔と桁違いなほど治安が上がっていることに驚いていた。記憶に全くないサンクトペテルブルクの美しさ、ネヴァ川がいかに雄大か。祖父に始めて会うのが葬式になるとは思わなかった。……などなど。


 今、出雲の傍にいるのはジャンプコーチのマリオ・ポニッツィだ。ラテン男を画に描いたような容姿の彼は、ジャンプ指導だけではなくコレオグラファーとしても活躍している。我がトロントFSCが誇る名指導者である。

 マリオは今、出雲の四回転トウループの練習を見ている。出雲は、この難しくも男子シングルでは必須になる――一流スケーターの条件の一つである――が飛べるには飛べる。ただ、ハンマーで叩いたような踏切があまり綺麗ではないし、テイクオフの時点で体が少し回っている。着氷は流れる美しさがあるだけにもったいない。あの癖さえ直れば、もっと加点がもらえるいいジャンプになる。

 だが体に染み付いた癖はなかなか直らないものだと知っている。これに関しては、根気良く矯正していくしかないのだ。


 ジャンプを飛んで、マリオのところに行って二、三言葉を交わす。それを何回か続けるうちに、少しずつ出雲の動きが鈍くなる。

 そのうちに彼は動けなくなった。


「まずい」


 細い体がリンクの隅でぐったりしている。マリオが心配そうに彼の肩を叩いた。こればっかりは、マリオを責められない。言葉を交わす時、マリオのことだからそろそろやめようと声をかけているはずだ。それでも出雲はやめない。

 出雲は練習し過ぎる。日本人の勤勉を体現したかのような、真面目な少年である。彼の元師匠もそうだった。練習をしていないと不安になるのだろう。

 私はすぐに出雲の元に向かった。彼の体の弱さは、元コーチからも聞いている。熱を出す回数は減ったけれど、減っただけで無くなったわけではない。近寄って体を起こす。顔色は紙よりも白い。額に手を当ててみる。思ったよりも熱くなかったので安心した。


「今日はもうやめなさい」


 トロントにきてからも、何度も喘息っぽい発作や発熱を起こしている。このまま練習を続けさせても、体の方が参ってしまう。


「そーだよ。そんな死にそうな顔して練習するもんじゃないよ。ほら、水飲んで」


 何故だか私についてきたアーサーが、出雲に水を差し出した。アーサーは見た目ももちろん良いが、同じぐらい他人に心配りのできる優しい少年である。出雲は金髪の少年から素直にペットボトルを受け取って、一気に三分の一ほど飲み干した。


「ありがとう。……君は?」

「アーサー・コランスキー。君は日本の神原出雲でしょ? 医務室まで連れてってあげるから、とりあえず上がりな」


 出雲はしかし、アーサーの提案に首を横に振った。十五歳という歳のわりに大柄で均整の取れた体つきのアーサーと、十八歳という歳のわりに体のラインが細い出雲が並ぶと、ギリシャ神話のポセイドンが日本神話のヤマトタケルを労っているように見える。これではどっちが年上かがわからない。


「もうちょっとやります。水飲んだら少し治ったので」

「ダメだって。やめた方がいいよ。なんだったら今から休んでダブルデートに行かない? ドリーを紹介するからさ」

「……時間が惜しくて」


 こうなったら出雲は引かない。勤勉で意思が固いのだ。

 私は諦めて、彼の練習の後押しをした。


「わかった、もう少しだけなら。でも決して無理はしないように」


 一ヶ月前に受け入れたばかりの教え子は、頷いてジャンプに向かっていった。

 アーサーも無理強いはしなかった。ため息をついて、やれやれという顔をしていた。


 *


 出雲とアーサーが初めて顔を合わせた翌日。私は練習終了後に自宅に出雲を招き入れた。彼を指導し始めて一ヶ月が経過したところだ。練習だけではなく、親睦や信頼関係を築くのもいい時期だろう。

 トロント郊外に構える一軒家が私の家である。妻のシャーロットは私の新しい教え子を笑顔で迎え入れ、久しぶりに息子が帰ってきたかのような熱い歓待をした。心づくしの妻の手料理は、最初は硬かった教え子の顔を簡単にときほぐした。まるで新訳聖書の放蕩息子のエピソードだ。もっとも出雲は私たちの息子ではなく、放蕩者でもないが。


「出雲」

「……はい」


 食事が終わり、改めて出雲に向き合った。妻はキッチンで食後のコーヒーを淹れている。芳醇な香りが漂ってくる。目を合わせると、出雲の体が固くなる。改まって真面目な話をする前は、誰だって緊張するものだ。


「君はとても真面目な子だ。よく練習するし、コーチの言うこともよく聞く。その上に自分の意見もきちんと持っている。……だからね。無理はしない。熱が出たらすぐにやめる。怪我は隠さない。これだけはちゃんと守ってほしい」

「……え」

「オリンピックチャンピオンを目指すなら、練習にメリハリが必要だ。がむしゃらにやるのは悪いことじゃない。でも、ダラダラと主体性のない練習に繋がりかねないからね。何がいいかを考えて、効率よく。自分の滑りを見つめ直して、無駄な練習はしない。……いいね?」


 練習に貪欲で勤勉なのは日本人の美徳だ。練習に遅れてくることもないし、サボることもない。反面、休んだり、リフレッシュするのをよしとしない傾向もある。彼をみると、日本が経済大国になるのもわかるが、過労死が多いのも頷ける。無理を押し隠すのは美徳ではなく、悪習である。


「……俺って、最近そんなに無茶な練習していましたか?」

「私がヒヤヒヤするぐらいには。当分、休みの日にはリンクにきては行けないよ」


 出雲は微苦笑する。わかりましたと彼はしっかり頷いた。

 週に一度の日曜日には必ず休みを取らせていたと元コーチは言っていた。だが、彼のことだ。日本にいる時、コーチが見ていない休みの日に自主練していたのではないかと私は踏んでいる。

 トロントにきてからもそうだったのではないか。日曜日は休養するようにと私は言っているが、こっそりとリンクに来て自主的に練習している気がした。先日、肘に知らない怪我があるのをみて、その確信を一層強くさせた。


「そうよ、休むことも立派な仕事なんだから。ちゃんと休んでこそ、いい練習ができるってものよ」


 頃合いを見計らったように、シャーロットがキッチンから出てきた。トレーには3人分の飲み物が乗っている。私はコーヒー。妻はアールグレイ。そして……。出雲が目を丸くさせた。


「真一から聞いた。君はこれが好きだって。トロントもそれなりに熱くなるからね。夏バテにも効果があるらしいじゃないか」


 ミルクとは違う白濁した液体。ほんのり朱が混じっているように見えるそれは、彼の地元の飲み物の、りんご入りの甘酒だ。一ダース購入し、真一に送ってもらった。他にも日持ちのするものをいろいろと。

 甘酒と一緒に、手紙が送られてきた。懐かしい几帳面な真一の字には、彼自身の幸せな報告と、教え子をよろしくお願いしますとの旨が綴られていた。

 ここにきて一ヶ月。出雲なりに慣れない環境で気を張っていたのかもしれない。良く頑張ってきたものだ。


 だから故郷の味に癒されるのは悪いことじゃない。


 出雲は白いそれを、時間をかけて飲み干した。しみじみとカップに口をつける彼をみて、彼の元コーチ――私の元教え子とのやりとりを思い出した。

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