第二章 光合成【2012–2013年、ダニー・リー】

第一話 ある著名なフィギュアスケートコーチの呟き

 彼を初めて見たのは、二〇〇九年の世界ジュニア選手権だった。


 ジュニアの時の成績はあまり当てにはならない。たとえジュニアで華々しい成績を飾ってシニアデビューしたとして、順調にシニアで勝ち上がれるとは限らない。逆に、ジュニアで冴えない結果でも、シニアに上がって化けるパターンもある。

 アジア人の美醜に疎い私だが、彼は確かに生まれたばかりの真珠のように美しかった。柔らかい輪郭に、整った鼻梁。瞳は黒曜石を彷彿させる。白と黒のコントラストに加えて、桜色の唇がアクセントになっている。真珠に、黒曜石に、桜ときた。そして十代半ばの少年が持ち合わせる線の細さが、彼をより一層美々しいものにさせていた。


 対して彼の演技は――というよりも彼自身が――息を吹きかければすぐに消える蝋燭のようにとても儚いものに見えた。演技をする彼は青白く弱々しい。そして、どんなジャンプやスピンも、必死でこなしているようにしか、私の目には映らなかった。その必死さが、ものすごく痛々しく感じられた。外見が美しい分、余計に。スケーターならば、氷の上で一層輝かなくてはいけないのに、見ている人間をハラハラさせてしまってはいけない。

 キス&クライに座る私の元教え子は、唇を噛み締めて項垂れる彼の肩を抱いて、必死に慰めていた。項垂れた彼よりも、元教え子は立派になったのだなと私は妙な感慨を抱いた。それは置いておこう。


 細い体に、青白い顔。弱弱しい演技。荒々しい呼吸に、病的に見えた顔色。


 この子は世界のトップに入ることはないだろう。これからジュニアで奇跡的にいい成績をおさめてシニアに上がっても、百戦錬磨の猛者たちに飲み込まれてしまうに違いない。そう思っていたのだが……。


「おはようございます」


 朝の九時。リンクの解放とともに一人の少年が真っ先に入り口のドアを開けた。

 日本人の挨拶の模範だというように。折目正しく彼が私にお辞儀をする。


 二〇一二年六月。

 きっと彼はシニアでは勝ち進んでいけない。

 そう思っていた彼――神原出雲を、私は今、指導している。

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