第六話 ライラックの花言葉
ファイナルの日程は、シニアの男子シングルはショートから一日と間を置かずにフリーになる。会場入りをすると、シニアペアのフリーが行われていた。ホテルを出るときに、ジミーからはこれで勝てば四連覇だから頑張れとエールをもらった。ジミーは同時開催のジュニアグランプリファイナルに出場し、昨日優勝した。今日の競技を全部観戦すると言っていたから、今頃観客席のどこかにいるのかもしれない。
ランニングやストレッチをした後に入った更衣室は空いていた。ロッカーを開いて着替えをしていると、華やかな顔がやってくる。
「こんにちわ」
先に挨拶したのは彼だった。当たり前のように隣のロッカーを開けた。準備を進める彼の顔色は、あまり良くはない。彼が、体が弱いという噂は度々聞いていた。事実、いくつかの試合や、エキシビションは体調不良で欠場していた。しかし今はその心配をしている場合ではない。彼は、これから演技をする選手の一人だ。
つまり、優勝を競う相手。
「……昨日の演技、良かった」
昨日はホテルに戻って、日本のテレビ局の放送で彼の演技を見た。その時の感想を端的に伝える。
ショートは有名な曲だ。「戦場のメリークリスマス」。映画を見たことがないが、主題曲はシンプルで流麗なピアノの曲である。フィギュアではショートプログラムに使われることが度々ある。旋律は繰り返しが多いから、フリーには向かないのだろう。
アスリートなら、昨日より今日、今日よりも明日と、より強く進化していかなくてはならない。歩みをやめた瞬間から、現状維持を選んだ時から、緩やかに退化が始まっていく。昨日より今日の自分が強くなるのは俺に限ったことではない。
しかしそれでも意外だった。彼がここまで早く、俺を脅かすようになるのが。
四回転サルコウは無駄なく流れるような着氷。トリプルアクセルと三回転ルッツ+三回転トウループは基礎点が一.一倍になる後半に。彼のジャンプは幅がある。だから、加点が付きやすい。
雪の降り始めを表現するかのような冒頭から、徐々に雪が深く積もっていく。冒頭はあくまで静かにターンを重ね、主旋律の始まりとともに離氷するサルコウは、羽毛が宙を浮いているかのような軽やかさがあった。
クリスマスという名前がついているが、この曲は幸せが溢れているわけではない。胸に差し迫るような苦しさがある。どちらかというと俺は、彼の今季のプログラムは、フリーよりもショートの方が好みだ。そう伝えると彼は俺もです、と答えた。
「ダイナミックな皇帝よりもショートのピアソラの方が、あなた自身の心を滑っているようで好きです」
良かった、ではなく、好きです。次に競う予定の選手から面と向かって言われると、少したじろいでしまう。なんの他意が感じられないから、余計に戸惑いが強くなる。そんな俺に構わず、彼は言葉を続ける。
「この一年、俺はあなたを目標にしてきました。俺が、というより、あらゆる男子選手が打倒スコット・ヴァミールと思っていますからね」
絶対王者ですから、と彼は付け足した。
買い被りすぎだとは思わなかった。そう言われるだけの実績を打ち続けた自負はある。バンクーバーの次のシーズンから、出場した大会で、俺は表彰台の頂点に上がってきた。唯一逃したのは、モスクワでの世界選手権だけだ。あの時は彗に逆転されて二位になった。
地元開催の五輪で敗れたことが、俺の核を作り上げた。
誰にも負けてなどやるものか。
その時間は決して長く続かないとは分かっている。それでも出来る限りの研鑽を積み、勝ち続けていたいと思うのは、アスリートの性である。……だから「皇帝」を選んだのだというマイアの声が蘇った。高潔な王者であれという願いを込めて。
「だから今回、俺の目標はあなたにしました。次の五輪であなたに勝てば、きっと頂が見えてくる。俺の夢が叶うかもしれない」
彼が放った次の五輪という単語に瞠目する。次の――ソチ五輪を指しているのだ。四年後の平昌ではなく、彼はソチのアイスバーグ・スケート・パレスでの戴冠を夢見ている。
アイスバーグのリンクは、青を基調としたリンクサイドが美しかった。パレス、という単語が似合うほどに。
「……出雲」
俺の顔は冷たいと言われがちだ。睨んだつもりはないのに、そう言いがかりをつけられることも多い。反対に彼――神原出雲は、青白い顔で華やかに俺の方を向いた。
いつの間にか、彼の着替えは終わっていた。紫色の華やかな衣装は――今までの大会のものと違っていた。紫を基調としたビーズやスパンコールの間を、細い蔦が覗いている。衣装全体が一つの花のように見える。袖口は薄く、滑るたびに優雅に広がるだろう。
この衣装が彼なりの決意なのだろう。すなわち、ソチの頂に上ることへの表明。
腹に力を込めながら、俺は出雲に問うた。
君の戦う理由はなんだ。この短期間で成長できた理由はなんだ。去年まで飛ぶ四回転の種類はトウループだけで、サルコウは飛べなかった。だから、ジャパンオープンで失敗しながらも四回転サルコウを飛んだ時、静かに驚いた。
それが今では、呼吸をするのと同じぐらいの軽さで飛んでいる。
最近の彼の演技を見るとき、未知の植物が急激に成長して足元にからみついてくるような恐れを抱く時がある。足を動かして振り払おうにも、どんどん伸びて離れない。そんな恐れは、ショートでの切実さも、フリーでのサン=サーンスも、見れば見るほど感じるのだ。
競技前にこんなことを尋ねられたくはないだろう。集中力を乱されたくはない。失礼を承知で、それでも聞かずにはいられなかった。
恐れの正体を知らない限り、俺は彼を侮り続けてしまう気がした。
「戦う理由は滑る意味。俺だって誰にも負けたくはありませんし、スケートという競技を愛しています。ですが一番は……そうですね……」
更衣室には誰もいない。それでも出雲は、声を下げて、虫の耳にも聞こえないような小声で呟いた。その言葉を聞いた瞬間、頭の片隅に過ったのは、衣装と同じ紫色の光。
昨日、彼と向き合っていた女性が付けていたピアスの光。優しげな指先と、幸せ溢れる出雲の顔。
「頑張りましょう。スコット。今日も俺は、全力であなたを倒しに行きます」
柔らかい戦線布告をして、彼は更衣室から出て行った。ペアの最終順位を告げるアナウンスが流れた。更衣室に残された俺の耳には、小声で呟いた彼の言葉が残ってしまっていた。
頂きを目指す理由がたった一つの恋だって別に構わない。
桜色の唇から漏れ出たのはそんな切実な言葉だった。
「……は」
背中に汗が流れて、拳が震える。二つの思いが、俺の体を支配していた。
すなわち深まった恐れと、今すぐ彼と戦いたいという渇望。
初めて。……本当に初めて、俺は出雲を氷上でのライバルだと認めた。弟のような選手でもなく、将来有望な若手でもない。彗をはじめとして、この大会に出ている他の選手と同じように、二月に開催される四年に一度の祭典で表彰台を競うべき相手。
戦う理由は人それぞれだ。彼の理由も悪くはない。
だが思いの強さなら俺だって負けていない。
チャンスはもう一度きり。四年後の平昌五輪では、俺は二十八歳になっている。もしジミーがいうように四年後があったとして、技術的にも体力的にもメダルを狙えるのはソチ五輪がラストだ。
誰が勝ちを譲ってなどやるものか。
上等だ。全力で叩き潰してやる。
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