第五話 アディオス・ノニーノ(父のために)


 すり鉢上のスケートリンクに、六人の選手が集まっている。六分間練習は演技へ向かっていくための最後の氷上での調整だ。

 日本の福岡で開催のグランプリファイナルには、シリーズ六戦の、成績上位六名が出場する。シーズン前半の一番大きな大会である。会場はマリンメッセ福岡。初めて滑るリンクだが、氷の状態は悪くない。

 体が温まったところで、ジャージを脱いでリンクサイドのマイアに渡す。

 ……先ほどから、どういうわけかサルコウの調子が悪い。もう一回飛んでみるが、タイミングが合わなかった。ハマらない、という表現が正しい。


「四回転、トウループじゃなくてサルコウを飛ぶ予定にしていた?」

「……そうだけど」

「今回はやめておいた方がいい。もともと、あなたはサルコウがそれほど得意じゃないでしょう?」


 水を飲みにリンクサイドのマイアのところに戻ると、彼女は渋い顔を作った。計画を隠していたことを怒るのではなく、俺の意図を読み取った上での苦言である。

 ロシア大会から帰ったあと、フリーで二回、四回転サルコウを入れる計画を立てた。これにはマイアはやってみましょうと言ってくれた。

 その時から少し考えていたことでもある。

 ショートも四回転を増やしてみる。今までは、冒頭に四回転トウループ+三回転トウループのコンビネーション。それに続けるのは、単独の三回転ルッツとトリプルアクセルだった。

それを今回は、単独の三回転ルッツを四回転サルコウにしようとしていた。

 マイアの苦言は続く。


「もし、四回転サルコウが飛べたとしても、アクセルを失敗するかもしれない。ショートでクワド二回入れるというのは、トリプルアクセルにも影響を及ぼすということよ」

「でも俺は、ファイナルのタイトルよりも、ショートで二つのクワドに挑戦をしたという経験を得たいです」


 マイアと意見が異なるのは珍しくはない。練習中もプログラム作成中も、試合前も意見が食い違うことはよくある。それでも抑えずに自分の率直な思いを言った方が、互いのストレスにならずに済む。少なくとも、あの時ああしておけば、という後悔する確率は減る。

 マリンメッセ福岡のリンクは滑りやすく、遠目からも彗のスケートがよく乗っているのがわかる。燕尾服風の衣装はアントンだ。誰も彼も調子がいい。ジュニア上がりの中国のチャン・ロンは、回転軸の綺麗なトリプルアクセルを決めている。滑りが拙い彼でも、ここの氷で滑ると多少よく見えるから不思議だ。

 練習時間終了一分前を告げるアナウンスが入る。コーチの眼鏡の奥が光った。


「……じゃあ、次のジャンプ。次に四回転サルコウを飛んでみて。それで、着氷できていいイメージが持てたら、ショートで入れましょう」


 いい加減睨み合ってもいられないというマイアが条件を出した。互いに意見を曲げなかった中マイアが出した、最高の譲歩案だ。俺は彼女の言葉に頷いてジャンプに向かっていった。

 スピードを上げる。一歩から伸びる距離が、徐々に長くなっていくのがわかる。雪の中をスキーで滑り落ちているようなシャープな音が、足元から生まれる。氷も雪も同じなのだ。滑っている時に無音になるのは嘘だと実感する。音とともに、視界が狭まる。全ての景色が音とともに後方に流れていく。サルコウの軌道に入る。プレパレーションから足を開いて、左足のエッジを強く滑らせる。

 飛び上がった瞬間、選手ではない別の何かが横切った気がした。人間のようで、人間ではない。俺が知らない何か。

 別の何かだと思ったのは俺の間違いだ。氷の上にいるのは、俺を含む六人の選手以外ありえない。

 エッジを滑らせた瞬間、同じように四回転サルコウを飛び、そして綺麗に着氷していたのは。

 グランプリファイナルは五位通過の――


「――!」


 やばい。

 空中で俺は、咄嗟に回転を解いた。四回転を飛ぶためのジャンプだったので、着氷に余裕がある。側から見れば、綺麗な三回転サルコウの着氷である。

 ――練習時間終了のアナウンスが入る。第一滑走の中国のチャン・ロンだけがリンクサイドに残り、あとは氷上から上がる。


「……ショートは三回転ルッツで行きます」


 マイアの元に戻った俺は、静かに告げた。マイアから上着を受け取り、体を冷やさないように肩にかける。己の動揺が、コーチに伝わっていないことに安心する。

 ……動揺する自分に、少なからずショックを受ける。経験の少ないジュニアの選手じゃあるまいし。誰かがジャンプを決めて、それに影響を受けて失敗する自分が情けない。

 イヤホンを耳に引っ掛けて、全ての音を聞かないようにする。出番まであと一時間以上ある。負の感情に引きずられないように切り替えなくてはならない。

 廊下で黙々とストレッチをするうちに、少しは気持ちが落ち着いてきた。足を伸ばし、肩を回す。設置されたモニターは見ないようにした。元々俺は、自分の演技の前に誰かの滑走を見るのが好きではない。自分に集中できる貴重な時間を潰したくはなかった。

 刻一刻と時間が過ぎていく。チャン・ロンの出番が終わり、出雲の出番が終わり、今滑っているのはアントンだ。アントンの次に彗が滑り、ネイトが滑って、最終滑走が俺になる。

 イヤホン越しにかけるのはショートの曲だ。作曲家アストル・ピアソラが亡くなった父に捧げた曲。幼い時に父を亡くした俺にとって、このシーズンでこの曲を滑るのは一番いい選択のように思えた。

 父親についての記憶は霞が掛かっている。手のひらが分厚く、瞳の色は俺と同じだった。母とは再婚で、それなりに歳が離れていたらしい。スケートリンクに連れていってくれたのはお父さんだったのよと、亡くなってだいぶ経った後に母は教えてくれた。それはカナダを離れる前日で、父の命日だった。

 スケートに対して高潔で、誠実でありたい。それはフリーのプログラムを滑るときに、強く抱く思いである。

 同じぐらいショートでは、誰か――スケートという道を与えてくれた父のために滑りたいと思った。

 ……ピアソラのリズムは、たまに感傷的な気分にさせられる。動揺しているよりはマシだと思い返し、顔を上げた。ランニングをしようとして、ヨガマットから体を起こす。

 そこで彼らを見た。



 見たのは、向かい合う男女二人だった。一人は日本のジャージを着た、先ほどまで滑っていた選手。結果もインタビューも全て終わり、一息ついたところなのだろう。

 もう一人は、関係者用のパスを下げた女性だった。アジア人は若く見える。実際の年齢はわからないが、向かい合う選手とはそれなりに歳が離れているかもしれない。ショートボブがかかる両耳には、紫色のピアスが光っている。瞳は切れ長で、卵型の輪郭。グレーのチェック柄のロングスカートにショートブーツ姿はこの場所では浮いている。トレーナーか、それとも彼のマネージャーらしき存在か。立ち位置はわからないけれど、それなりの美人だ。「それなり」と評するのは、もう一人の方が遥かに美形だからだ。

 彼らは日本語で何やら話していた。俺が全く解せない言語である。

 抱き合うほど彼らの距離が近くなる。ショートボブの女性が、選手の頭を撫でる。小さい子供を撫でているような、優しい手つきだ。癖のない黒髪が女性の指の間に絡んでいく。褒めているのか、可愛がっているのか。表情や仕草からは、向かい合う選手を大事にしているのがわかる。子供扱いしている女性に、その選手は少し不満げな顔を見せる。

 だけど次の瞬間、彼が見せたのはくだけた笑顔だった。破顔一笑というのは今の彼の顔のようなことを言うのだろう。


 ――すれ違い、ランニングをして見ていないふりをする。何かいけないものを見た気分になった。彼らの関係性がわからない。トレーナーとアスリート。違う。ビジネスパートナーなら、あんなに距離を詰める必要はない。姉と弟という雰囲気ではない。それだったら、もっと砕けた空気にもなるだろう。

 血のつながりはないけれど互いに尊重し、大事に思い合う関係。

 それはつまり……。


「スコット、そろそろ時間よ」


 ファイナルのショートプログラムは、シリーズの成績下位の選手から演技を始める。

 アリーナからネイトの曲が聞こえてくる。ネイトは、二位通過。つまり、俺の次に成績がよかった選手だ。アリーナに流れているのは、クイーンの「ボヘミアン・ラプソディー」。人を殺して旅に出た男を歌った曲。フレディの歌唱パートはエレキギターで表現されている。ネイトは友人だ。長く共に戦ってきた、友人であり氷上のライバルが、どんな気持ちでこの曲を滑っているのかが気になった。誰しも氷の上での、大事な人がいたり、道標がいたりするのだろうか。

 そんな思いを振り払いながら、マイアの言葉に顔をあげてリンクに向かった。

 ショートプログラムでは、二分五十秒の間で、七つの要素を行う。内容は、アクセルジャンプ、コンビネーションを入れたジャンプを三つ、三種類のスピン、一つのステップである。

 ピアソラの曲と父への郷愁は、二分五十秒の演技中、正しく俺を浄化してくれた。マイアには感謝しなくてはならない。申告した通りのジャンプを飛んだ。あのまま四回転サルコウを飛んでいたら、もしかしたら派手に失敗していたかもしれない。


「悪くはなかった」


 キス&クライに座ったマイアが、形のいい足を組んでつぶやいた。先ほどの演技のリプライがモニターに映し出される。


「ジャンプは少し詰まり気味だったけど、スケートは今季で一番乗っていたわ」


 仏教の僧侶が、煩悩を断ち切るために修行をする気持ちがわかる気がした。より洗練された、一本のトレースでどこまでも伸びるように滑っていくと、身体中のあらゆる感覚器官が、ただ滑るためだけに発達していく。

 得点が出る。機械的なアナウンスから遅れてやってくる歓声。


 ――スコット・ヴァミール。ショートプログラム。技術点52.55。演技構成点45.39。合計97.94。ショートプログラムは一位で折り返す。


 二位の……日本の神原出雲とは、わずかに0.24差だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る