第四話 「皇帝」とナポレオン
グランプリシリーズが開幕し、俺は地元のカナダ大会とロシア大会にエントリーした。カナダ大会の今回の開催地はセントジョン。カナダ大会がどこで開催されるかいつも気になってしまう。バンクーバーにならないようにとどこかで祈ってしまっている自分がいる。パシフィックコロシアムではもう二度と滑りたくはない。
「いい? 終盤のトリプルアクセルが肝心よ。躊躇っちゃダメ」
「わかってる」
「それが心配なのよ。あなたはクワドとは相性がいいくせに、トリプルアクセルがもう少しだから」
ショートカットの金髪に、眼鏡に下げたグラスチェーンがトレードマーク。いつもながら思う。リンクサイドに佇むマイア・レイノルズは、フィギュアスケートのコーチというよりも、弁護士ドラマに登場するやり手の女性検事のような容貌をしているな、と。
カナダ大会の男子フリースケーティングだ。ショートの「アディオス・ノニーノ」はジャッジからも高い評価を得た。曲を選んだのはコーチのマイアである。タンゴの破壊者と言われるアストル・ピアソラの曲を、あえてバンドネオンではなくピアノの音色にした。そうするとスケーティングだけが際立つようになった。過剰に顔の表情や演技力によらない分、スケーティングに表情をつけることができる。
フリースケーティングでは、四分半の間で、十三個の要素を組み入れる。ジャンプを八つ、うちコンビネーションジャンプは三つまで。異なった形状のステップを二つ、スピンを三つ。
ダニーから離れて三年。マイアとの関係は良好だ。苦手だったトリプルアクセルを飼い慣らす方法も、四分半滑っても落ちないスタミナも彼女が授けてくれた。
「きっとあなたにはナポレオンの加護があるわ」
「それ、あんまりいい言葉じゃないよ」
「ならスケートの神の加護なら信じる?」
「ナポレオンよりはね」
俺の呟きがアナウンスとかぶる。だいぶリラックスできた。マイアと握手をして、リンクサイドから飛び出した。
会場のスクリーンに、俺の基礎データと氷上に飛び出した俺自身の姿が映し出された。スコット・ヴァミール。身長175cm。パーソナルベストは293.35。コーチはマイア・レイノルズ。振付師はミハイル・フース。短く刈りそろえた金髪。鋭角的な顎と鼻。一重で切長の瞳は深海の色。整っているが、冷徹だと言われる顔だち。
位置につき、音楽が始まるまでの空白。観客からの拍手も消えて、純粋な沈黙が落ちる時間。この空白が俺は好きだ。程よい緊張感が逆に俺の心臓を冷やしてくれる。氷の中に身を浸している感覚がたまらない。心臓は高揚していても、頭は冷静でなければならない。
征服戦争を繰り返すナポレオンに想いを馳せる。
曲はルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲。ピアノ協奏曲第五番、第一楽章。
別名「皇帝」。
軍隊の行進のようにも、凱旋する華やかなパレードのようにも聞こえるオーケストラ。砲撃を彷彿させる勢いのある音を、ピアノの高音が飾っていく。力強く壮麗なコンチェルトをエッジワークで表現していく。
玄人好み。地に足がついた実直な滑り。正しく磨き上げて来たスケーティング。
冷たいと言われるのは見た目だけではない。俺の滑りそのものもそう称されることが多い。
俺は、他人の感情に訴えかけるような、エモーショナルな演技があまり得意ではない。シャイな人間だからとか、照れがあるとか、そういう理由ではない。俺はシャイな方ではないし、照れていたらフィギュアスケーターなんてやっていられない。
深くエッジを倒し、淀みなく滑る。単純かもしれないこのスケーティング技術に誇りを持っているだけだ。
しかし、理解されない人間にはアスリートの傲慢だと捉えられてしまう。どうもそれだと見る人間に冷たい印象を与えてしまうらしい。「スコット・ヴァミールはコンパルソリー・マシーン。機械のように正確なスケーティング。それ以外でもそれ以下でもない」と記事に書かれてしまう。
例えば日本の紀ノ川彗のように、技術と情感がうまく合わさった演技ができたら、ファン受けもマスコミ受けも良く、さらにはジャッジからも好かれるのだろう。彗の、バンクーバー五輪でのフリープログラム『ローマの休日』は圧巻だった。そこにアン王女がいるかのような楽しさ、それから切なさが合わさった名演だった。日本人はシャイだというのは嘘なんじゃないかと思った。
でも俺は俺でいい。スケート関係者も、スケートファンも、俺を知らない人でも、俺の良さをわかってくれる人はいる。
だからここまで頑張ってこれた。
心配だと言われたトリプルアクセルも難なく着氷する。唯一前向きで踏み切るジャンプ。着氷も問題はない。最後のジャンプは、連続スリーターンからの三回転フリップだ。四回転はプログラムの冒頭に三度、乱れることなく正しく飛んだ。
プログラムが終盤の見せ場に差し掛かる。終盤のコレオグラフィックシークエンス。リンクを半周するイーグルとピアノソロ。
滑りながら、ターンを重ねながら曲について考える。
皇帝というタイトルはベートーヴェンではなく、後世の人がつけた別名だ。ベートーヴェンの時代にいた英雄はナポレオンだが、作曲家はナポレオンを嫌っていたという説もある。そして、この曲はベートーヴェンが存命中は一度しか演奏されなかった。
それでもこの曲を「皇帝」と名付けた後世の人の気持ちが少しだけわかる。征服戦争を重ねたナポレオンは、民衆の理想ではなかった。人々の理想の英雄は、勇猛果敢で、かつ人徳者で高潔であってほしいのだ。この曲のように。
俺は、傲慢と言われようが高潔でありたい。スケートに対しても、競技に対しても。「スケーティング」という、氷の上でしか成しえない技術に対しても。
客やジャッジの理想は滑れない。己の理想のスケートのために、スケートを滑り、五輪王者を目指す。
そういう自分は確かにナポレオンに似ているのだろうか。……いや、似ていてたまるものか。俺はセントヘレナには行かない。例え引退かもしれないシーズンだとしても、ソチだってワーテルローの戦いではない。
四分半が終わった時、カナダの国旗が揺れていた。三回の四回転を決めたノーミスの演技。去年の世界選手権の時も同じだった。揺れる赤いメープルの木。戦い続けた英雄の凱旋を彷彿させる。
――二位に二十点以上差をつけて、カナダ大会四度目の優勝を飾った。
*
ロシア大会も同じように優勝を果たし、グランプリファイナル進出を決めた。ロシア大会はシリーズの第五試合目。残りは日本大会のみだ。日本大会では、何事もなければ彗が優勝するだろう。
シーズンが進むと流石にハードになってくる。練習に次ぐ練習、週末には試合を控える。試合のある前後一週間は、移動と試合と、体のケアで時間が過ぎていく。一試合出るごとに訪れる疲労の山は、四年前と比べて確実に大きくなっている。
たまに雑誌や新聞社から取材がやってくる。その場合は、スケートリンクの事務室かマイアを通してくれと言うようにしている。取材の全ては受けきれない。ゴシップまがいの雑誌社もくるので、必要なところだけ受けるようにしている。
「足がパンパンだけどどうしたの?」
ロシア大会が終わり、コロラドに戻って二日。街中はホリデーシーズンの到来を知らせるように、クリスマス一色になる。街中を飾るイルミネーションを尻目に練習の後にチャーリーのところに寄った。
チャーリーという名のトレーナーは、PEANUTSのキャラクターのチャーリー・ブラウンをそのまま大人にしたかのような愛嬌のある顔立ちの青年だ。アイスリンク近くに整体院を構えている。この辺りのアスリートの多くは、チャーリーの世話になっているかもしれない。
コロラドにきて三年、マイアに指導を受けてきたように、体のメンテナンスはチャーリーに任せてきた。子供っぽい顔立ちはさておき、腕はいい。癖のある髪は、チャーリー・ブラウンとは違う黒髪だが。
「特に右の太もも。スケーターの宿命だけど、これはちょっと……」
スケーターは全てのジャンプを右足で着氷する。ショートは二分五十秒、フリーは四分半、右足にかかる負荷は左足のそれとは比べ物にならないほど大きい。それに加えての、フリーでは四回転が三つだ。酷使にも程がある。太ももに岩があるねと言いながらチャーリーが指圧する。
「フリーで、クワドを三回飛ぶのは変わらないんだけど、二回飛ぶのをサルコウにしようかと思って。それで今日、調整を始めたところ」
フリーの「皇帝」はジャッジの間でも評判が良かった。ロシア大会のバンケットで、あるジャッジは「あなたがこれに乗せて滑ると知ったら、ベートーヴェンだって生前にこの曲をもっと披露していたかもしれない」と言ってくれた。プログラムをブラッシュアップさせつつ、サルコウを二回にさせてみようと思った。
「サルコウ? 余計に右足に負担がかかるじゃん。君ってサルコウ、そこまで得意だったっけ?」
「苦手だったけど、トリプルアクセルほどじゃない。むしろ、クワドを覚えたらサルコウが飛びやすくなった。せっかく安定して飛べるんだから、一点でも基礎点を高くしたくて」
マイアは俺の提案について、諸手をあげて賛成もしなければ否定もしなかった。ただ淡々と、やってみましょうと言っただけだった。スケーティングの練習もおろそかにしない。より一層体力を使うのだから、スケーティングを蔑ろにしたら全てがはまっていかない。……チャーリーは俺の言葉に、呆れたように笑った。
「君は十分強いし、金メダル候補だろう? そこまでやる必要はあるの?」
「ある」
言いきらなければ、アスリートではない。プログラムの練度を上げ、ジャンプの精度を上げ、スケーティングを見つめ直し、かつ完璧に滑り切る。言葉にすると簡単だが、実際に実行するのは困難だ。
……バンケットでは大会の総評や選手の演技についてだけではなく、今シーズンの総力図も話題になった。誰々が調子いい、あの選手がクワドを覚えた、等。
中でも聞こえてきたのが、日本の神原出雲の話題だった。今季の彼はいい。もしかしたら、ソチでメダル候補になるかもしれない。いいやもしかしたら一番上も……。……そんな内容が所々から聞こえてきた。噂話は完全にはシャットダウンできない。
グランプリシリーズは二大会とも二位で、アメリカではネイト・コリンズに、フランスではウクライナのアントン・コバレフスキーに優勝を譲っている。それでも演技を見ると、去年の彼よりも格段にいいと思わざるを得ない。今現在で、ファイナル出場を確定させている選手の一人だ。
弟のような選手。その筈だった。しかし今季の出雲の演技を見ていると、見知った弟ではなく、知らない誰かが滑っているような、そんな妙な心地に陥った。
彼が何のために滑っているのか。ここまで成長できたのは、相当の努力があったに違いない。戦う理由は人それぞれだが、その理由が知りたくもあり……次に対峙するのが、少し怖くもある。
「でもさー、アスリートにとって、体は資本なんだから。下から誰かがきても、焦っても意味ないよ。下手に今までやっていない練習やって怪我したら元も子もないからね。休めるときにはちゃんと休みなよ」
「わかってる」
「本当かな。スコットは真面目だからな。顔に出るし、結構、気にしいだよね」
「……うるさいな」
自分のことをわかってくれる人間がいる。それはとても良いことだ。こうしてチャーリーと話していると、シーズン中の緊張感が多少和らぐ。きちんと休み、次の練習に向かっていけるように。充実した練習を経て、試合で良い演技ができるように。
急激に眠気が襲ってくる。背中や右腕を指圧されると、右足と同じかそれ以上の岩がある。筋肉が凝り固まっている。右足だけではない。腕の振りや背中の力も、四回転によって随分と使われてしまっている。
グランプリファイナルまでは三週間ある。今調子がいいからといって、うかうかしていられない。このまま止まりたくはなかった。
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