第三話 ジャパンオープン2013


 練習とアイスショーの出演で慌ただしくシーズンオフは過ぎていき、季節は秋になった。秋のコロラドはアスペンの木で山が黄金色に染まる。練習とアイスショーの隙間に眺める山々は、この三年の間で俺の癒しになった。


 十月後半から始まるグランプリシリーズの前に、俺は一つの大会に招待された。

 日本開催の地域別のプロアマ混合戦、ジャパンオープンである。


 ジャパンオープンは、北米、日本、ヨーロッパの三チームの合計点で競う。メンバーはそれぞれ、男子シングルが二人、女子シングルが二人の計四人である。滑るのはフリースケーティング。全十二人が滑ることになる。

 北米チームは、男子シングルでは俺とアメリカのネイト・コリンズが招待された。今年二十一歳になるコリンズは、友人でもあり、同じ世界選手権の表彰台に立った良きライバルである。スマートで背丈があり、余計な筋肉がついていない。同じぐらい無駄な雑音のない、詩情を歌い上げるような繊細な滑りが特徴の選手である。

 ヨーロッパは男子ではトリノ五輪銀メダリストのブライアン・メイスンと、ロシアのアレクサンドル・グリンカ。グリンカはジュニアからの招待だ。

 招待国の日本は、男子シングルでは当然のようにバンクーバー五輪銅メダリストの紀ノ川彗がエントリーしている。


 十月第一週の土曜日。場所は日本のさいたまスーパーアリーナ。日本でも有数のスタジアムである。ここで滑るのは三回目だが、全てこのジャパンオープンでの出場だ。


「元気そうだね。活躍していて、私も嬉しいよ」


 廊下で俺に話をかけてきたのは、元師匠のダニー・リーだった。壮年のカナダ人紳士。その横にいるのが、ダニーの現在の教え子。すなわち今回の出場選手の一人。


「相変わらず細いな。ちゃんと食べてるのか?」

「変な心配しないでくださいよ」


 俺の軽口に、ダニーの横の彼は薄く笑って答えた。

 小さい顔に白い肌。柔らかな鼻梁。完璧な造形をもつ端整な顔立ちに、長い手足。切長の瞳は黒曜石の如く美しい。加えて桜色の唇は、肉厚な花弁のように柔らかそうだった。

 花のように。もしくは宝石のように麗しい男。


「今日はよろしくお願いします。頑張りましょう」


 神原出雲。今大会のもう一人のニッポンチームの男子シングルの代表である。

 若干十九歳の少年は折り目正しく俺に頭を下げた。

 昨シーズン、急成長した選手の一人だ。グランプリファイナルで三位になり、全日本選手権では紀ノ川彗に変わって初めて王者に戴冠した。そこからシーズン後半は失速して、世界選手権は七位に留まった。噂だと、世界選手権の二週間前に捻挫をしたらしいが、詳しいことはわからない。その手のニュースは耳にしたくはなかった。誰かの不調や怪我なんて祈りたくないものだ。


「頑張りましょうって、俺たち敵同士の筈なんだけど」

「ああ……。そういえばそうですね」


 日本の言葉で、彼の名前は神にも由来しているらしい。なるほど、確かに彼は、神話に出てくる神々の如く美しい容姿をしている。

 だが、彼の実力は自身の美しさに及んでいない。男子シングルで戦っていくために彼が乗り越えるべき課題は多い。例えばフィジカル。フリースケーティングの四分半を息切れしないだけの体力。ステップの時のエッジの深さ。基礎スケーティングの時の姿勢が、少し猫背になる癖。滑りの重厚感。

 彼の滑りは才能に満ちている。五輪の表彰台争いに加われるほどのものを持っている。だけど、これからの選手だ。彼がメダル争いに参加するのは、四年後の平昌五輪からになるのだろう。

 ダニーの教え子だからだろうか。俺は出雲のことを弟のような存在だと思っていた。少なくとも、軽口を叩き合って笑えるぐらいには。

 ……俺は彼を脅威と見なしていなかった。昨シーズンに急成長したとしても、どこにでもいる、これからが有望な若手のスケーターの一人だとしか思えなかった。


 ジャパンオープンは最初に男子シングルの六選手が滑り、次に女子シングルの六選手が滑る。アメリカのネイト、ロシアのグリンカが滑り終わり、出雲の出番になった。彼が氷上に現れると、黄色い声援が前二人の時よりもより多くなったのは気のせいではないだろう。彼をコールするアナウンスが、声援にかき消されそうだった。流石に位置につくとそれも静まるが。

 ボトムは黒一色。タートルネックのトップスは竜胆の花に似た紫。袖口や胴回りには、トップスより濃い色の紫色のビジューが散らばっている。ヴァイオレット。パンジー。アメシスト。時折極彩色の光が反射するのは、紫の中にクリスタルでも混ざっているのだろうか。人を選ぶ――少なくとも俺が着る類の衣装ではない――が、中性的で麗しい出雲にはよく似合っていた。


 三度の和音のピアノ伴奏。よく伸びるヴァイオリンの音の音から始まる。

 イントロで何を滑るかわかる。フィギュアでも、数シーズンに一人は滑る曲だ。作曲家サン=サーンスの中でも特に有名で人気の曲。

 男子シングル三番滑走。神原出雲。

 曲はカミーユ・サン=サーンス作曲「序奏とロンド・カプリチオーソ」。



 演技が始まって、目を開いた。

 猫背が改善されたようだった。

 始まりのジャンプは四回転だ。助走が前よりも早い。ヴァイオリンの音が憂いを帯びる。この導入部分が好きな人は多いだろう。このまま入るのはトウループ……。ではない。

 左バックインの姿勢。

 これはトウループじゃない。サルコウの入りだ。重心が左足に乗り、両足の形が氷の上で大きく開く。テイクオフに迷いはない。

 ――踏ん張り切れずに転倒する。彼が転倒するときは、若い枝木がポキッと折れるような芯のなさがあって、見ている人間がひやりとする。それでも回り切っているように見えた。彼はジャンプからすぐに立ち上がって演技を再開させる。

 続くトリプルアクセルは素晴らしかった。着氷に流れがあり、その足でステップを踏む。

 演技は続いていく。一つジャンプを決めるたびに、一つスピンを回るたびに、俺は小さく驚いた。それがいくつも重なると、これは只事ではないのではないかと思うようになった。

 去年までの彼はどこに行ったのだろう。彼のスケートのタッチは重くはない。それなのにスピードがあって、三十度ぐらいまでエッジが傾いている瞬間がある。

 気まぐれにテンポが上がり、気まぐれにヴァイオリンが伸びる。カプリチオーソは音楽記号で「気まぐれ」という意味だ。スペイン風に作曲されたこの曲は、スペイン風に情熱的な部分がある。物憂げに、情熱に、そして華やかな旋律。支えるピアノは、大きな木の幹のように揺らぎがない。

 彼はどっちを演じているのだろう。気まぐれに変わる華やかなヴァイオリンか。それとも実直なピアノか。これはワルツ。これはフォックストロット。たまにはねるヴァイオリンの音は、クイックステップのようにいきがいい。競技ダンスのスタンダードは、基本的にリーダーである男性とパートナーである女性の手が離れることはない。同じように出雲の手は、誰かと手を繋いでいるように見えた。

 その間にも足元は滑らかに演技を実行していく。ステップとステップの間も、ただ漕いでいる部分がない。つまり、無駄な力を使っている滑りではなく、スタミナを使わない滑りになっていた。雑な滑りは、足元だけに力がこもり、体力を奪いやすい。しかし、出雲の滑りは上半身としっかり連動している。

 深いながらも羽毛のようにエアリーな滑りが、音もなく柔らかく伸びていく。


 こんな滑りは見たことがない。

 急激に生長を続けるツタのようにも見えて、開花直前まで膨らんだ蕾のようにも見えて――


「スコット? ……スコット!」


 ハッと目を開いて足を止めた。


「汗、すごいよ。それに心拍数上がりすぎ。何かあった?」


 ジミーに指摘されて気がつく。俺の汗がバイクの周りに水溜りを作っている。コードレスバイクの画面を見てみると、心拍数が170以上上がってしまっていた。

 ジャパンオープンから一週間が経った。俺は新しいフリープログラムをミスなく滑り、男子シングルで一位になった。二位は紀ノ川彗。彗は三回転ループがパンクした以外は、別段問題がなかった。


 出雲は四位だった。四回転サルコウの失敗もあったが、中盤にいくつかジャンプを失敗させて、思った以上に点は伸びなかったのだ。

 失敗も散見されたが、内容は濃いものだった。ルッツの着氷では腰に手を当てて手を挙げる。スピンで目まぐるしくポジションを変え、ベーシックなキャメルスピンから回転軸の早いキャッチフットスピン。柔軟性がある彼ならではの技だ。

 何もない、といってもジミーは納得しないだろう。動揺した結果がバイクの周りに現れてしまっている。コーチのマイアはジャパンオープンでの俺のフリーを称賛してくれた。シーズン序盤でこれだけ滑れるのは素晴らしい、と。

 それなのに俺は、出雲の演技についてばかりを考えてしまっている。一位になった自分の演技や、二位の紀ノ川彗の演技よりも。

 俺は傍に置いたタオルでしっかりと汗を拭いた。水を飲みながら、納得しないと理解しつつもなんでもないとジミーに伝えた。


「本当に? 結構スコットは顔に出るからなー」

「うるさい……」


 思わずじろりと睨む。俺の容貌はよく人から「冷たそう」と形容されるので、ひと睨みしただけで硬直する人間が多い。睨まれて萎縮しない人間なんていないと思うが、ジミーはカラッと笑うだけだった。


「まぁ、気が済むまで自転車回してりゃいいんじゃないの? トレーニングするのに、誰も文句なんか言わないんだからさ」


 深追いしてこないジミーの気軽さが嬉しかった。

 追い込まれたわけではないのに、出雲の演技を思い出すとわけもなく不安になる。俺は周りの床に散らばった汗をモップで丁寧に拭き取って、氷上練習に向かって行った。


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