第二話 アンダードッグ


 カナダのバンクーバーで開催された、二〇一〇年の冬季オリンピック。

 フィギュアスケート競技のカナダ代表の結果は、まず、女子シングルでは十七歳のステイシー・マクレアが銅メダルを獲得した。カナダ女子のメダル獲得は十八年ぶりだった。アイスダンスではジュニア上がりのカップルがサプライズの銀メダルを獲った。ペアは新人二組が出場し、五位と六位で健闘をした。


 そこにきての男子シングルである。


 代表枠は「二」。一人はスティーブン・ブライズ。二十七歳の彼は、ショート十三位、フリー十位の十二位に終わった。スティーブン本人は上に引退シーズンで国内選考を勝ち抜いた上での五輪だったからか、自身の結果に大変満足しているようだった。

 出場決定で祝福された彼を羨ましいと思う。一方で、彼が俺のような余計な重圧を背負わなくて良かったとも思うのだ。自国開催の五輪というものは、選手に想像以上の重責を背負わせてしまうものだと改めて実感した。他国開催よりも、圧倒的に国内での注目度が高くなるからだ。実力者や、メダル候補となれば尚更に。

 あの頃の男子シングルは、有力な金メダル候補がいない代わりに、世界選手権十位以内の選手ならば表彰台を狙えるという群雄割拠の時代だった。昨シーズンの世界選手権で銀メダルを獲った俺も、自惚れではなく十分にメダルを狙えた。

 カナダ代表スコット・ヴァミールの結果は、ショート二位、フリー七位。総合成績第六位は、決して悪い成績ではない。スケートを少しでも知っている人間なら、そう思ってくれるだろう。

 しかしメディアやフィギュアを知らない人間は別だ。有力者が何人もいるなんて知ったことではない。メダルを獲れたか否か。それだけで判断する人間だってごまんといる。

 ……俺の場合、六位入賞は、健闘した、に当てはまらなかった。


「金は無理でも、二位なら獲れたかもしれないのに。スコットは惜しかったよね」

「最低でも五位に入ればよかったんだよ。それがフリーで崩れちゃったから。あのまま行けば表彰台だったのに」

「ショートがよくても、フリーが悪かったら台無しだよ」

「せめて四回転があれば別だったけどね」

「四回転があってもわからないよ? 日本の紀ノ川の方が圧倒的に感動する演技だったし」

「それはそうかもしれない。……ここだけの話、私はスコットの演技の何がいいのかわからない。ただ綺麗に滑っているだけじゃない」


 記者会見が終わった後、カナダ国内のメディアが廊下で話していたのがこれだ。折角なら会見の時にそう言ってくれれば堂々と答えられたのに。良さが何かわからない選手に結果だけ求めるあたり、メディアは大変身勝手だ。

 記者会見の内容よりも、廊下で話していた非公式の雑談の方や、演技上での失敗の方が広まっていった。そうして出た新聞記事の見出しはこれだ。


 スコット・ヴァミール、惨敗。と。


 結果だけを追い求めて演技をあまり見ない国民がそう認識するまで、時間は掛からなかった。


『気にすることはない、君はよくやったよ。初めての五輪で六位なんて、すごいじゃないか!』


 そう言ってくれたのは、当時のコーチ、ダニー・リーを含むフィギュア関係者だけだった。

 ダニーは俺の悔しさを理解してくれた。彼自身、地元開催の五輪で四位に終わってしまった経験がある。ダニーはその時を振り返って、「マスコミは同じことを繰り返すな」と苦く語った。気にするなという方が酷だ、でも君は君で次にまた向かっていけばいいとも言ってくれた。

 バンクーバーでの悔しさを忘れた時はない。俺を負け犬扱いしたマスコミに対してよりも、不甲斐ない演技をした自分に対してだ。あの時四回転をちゃんと習得していれば。あの時トリプルアクセルをステップアウトしていなければ。あの時スピンのレベルがちゃんと取れていれば。あの時……。

 数えきれないほどの「あの時ああしていれば」を腹に沈めて、日々練習に向かう。


 そうして三年が経ち、新たな五輪シーズンを迎えることになった。


 *


 練習拠点は隣国アメリカのコロラド。バンクーバーシーズンの終了とともに、俺は練習拠点を長年親しんだトロントからコロラドに移すことにした。五輪の結果からマスコミから負け犬扱いされたのが、相当堪えていた。人々の目線に恐れを感じ、トロントの街中も帽子を目深にかぶって歩くようになっていた。五輪後の世界選手権では銀メダルを獲得したが、これに関してはスルーされた。

 そうしてダニーから、練習環境を変えることを提案され、今のコーチを紹介された。隣国だが、国境を越えただけでだいぶ心境は楽になった。

 練習拠点にしたコロラドのリンクは、トレーニングスタジオが併設されている。氷上練習も筋肉トレーニングもクールダウンも同じ場所で完結できる。また、スタジオの話ではないが、コロラドは標高が高いので、それを利用した高地トレーニングも行えた。ここ数年で肺活量と体力が段違いに上がった。昨シーズンの世界選手権で、三つクワドを入れられるようになったのが成果の現れだ。


 ――二〇一三年七月。BGMはクイーン。今なお人気の高いUKロックを聴きながら、一心不乱にトレーニングスタジオのコードレスバイクを回す。


「スコット!」


 いきなり後ろから肩を叩かれた。

 イヤホンを外して、サドルから降りる。頭から汗が滴り落ちた。バイクのデータを見ると、三十分ペダルを回していたことになる。

 肩を叩いたのは、見知った黒髪の少年である。瞳が大きく、ノリと流行で生きているような雰囲気がある。

 午前二時。俺の今日の氷上練習は、午前中の四時間だ。昼休憩を挟んで、筋肉トレーニングの前の有酸素運動の最中だった。


「ジミー。学校はいいのか?」

「テストも終わったし、これ以上机に向かっていたくないさ。それよりも、来月には試合があるし。早く滑りたくてウズウズしてるんだ」

「本当に勉強嫌いだな。留年するぞ?」

「しない程度に適当にやっているよ。それよりフェイスブックを見てよ。いい写真だろ?」


 黒髪の少年はスマートフォンを器用に動かしてSNSを開いた。学友と撮ったらしい写真に、「テスト終わり!」と絵文字付きのコメントが書いてあった。校内で撮った写真をSNSにアップロードするなんて、進んでいるな、と感心する。こういう写真をあげるあたり、彼の、よく言えば天真爛漫、悪く言えばインターネットの恐ろしさを知らない無鉄砲さを感じる。もしバンクーバーシーズンの俺が似たような写真を挙げたなら、バッシングは避けられなかっただろう。

 愛称はジミー。本名はジェイミー・アーランドソン。現在十四歳の少年は、今季の世界ジュニア出場と表彰台を目標に練習を続けている。同じマイア・レイノルズに師事する弟弟子でもある。


 フィギュアスケートは、シニアよりもジュニアの方が早く試合が始まる。彼の今季の初戦は、八月末のジュニアグランプリシリーズ第一戦だったはずだ。シーズンインに向けての練習も本格化してきている。

 自他ともに認める勉強嫌いで迂闊なジミーだが、滑りの質はとてもいい。ひと蹴りがよく伸びるし、余計な雑音がない。飛び跳ねるような音感がある。真面目にスケートに取り組んでいる証拠だ。

 彼は昔の俺が通った道を歩もうとしている。ジュニアグランプリ、ジュニアグランプリファイナルからの、世界ジュニア選手権という、ジュニアカテゴリーの中では最高峰の国際大会の道。さらに彼は、邪気がなく、怖いもの知らずで、これからのスケート人生が楽しみで仕方がないという輝きに満ちている。余計な雑音や期待や失望も何もない頃。スケーターとして、一番幸せな時期なのかもしれない。


「本当は君と同じオリンピックに出たいんだ。だから、ソチで頑張って金メダルを獲ったら、二連覇目指してよ」


 金メダル、二連覇と簡単に言ってくれる。苦笑いを見せながら、ジミーに答えた。


「多分、俺に四年後はないよ」

「そんなこと言わずに、四年後も一緒に出ようよ。スコットがいないと寂しいよ」


 輝きに満ち満ちた少年は、屈託なく四年後について話している。自分自身の、四年後のオリンピックの出場を疑っていない。十四歳のジミーは、年齢制限のためソチ五輪には出られない。出場出来るのは、二〇一八年の平昌大会からになる。

 二十四歳の俺と、十四歳の彼では四年後が違う。十八歳の青年になるジミーと、二十八歳のアラウンドサーティーになる俺。体力や技術的な面だけではなく、モチベーションが維持できるかどうかがわからない。ジミーの言葉に、そうだね、じゃあ頑張らないとねと思ってもいないことを返してスタジオから出る。


 四年後なんて考えない。とにかくこのシーズンを全力で戦う。

 全ては来年二月の五輪で、金メダルを獲るために。

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