第34話 許す

 休憩はほどなく終わり、俺たちは勉強を再開。


 ただ、椎名はしばらくぼぅっとしていて、勉強には集中できていなかった。


 昼食時には、椎名の両親と妹とも交流する時間があった。俺は無難にやり過ごしていたのだが、少なくとも悪い印象は持たれなかったと思う。


 なお、椎名の両親としては、子供は中高生の内から恋愛経験を積む方が良い、と考えているそうだ。大学生や大人になってから初めて恋愛を経験すると、取り返しのつかない失敗をする可能性も高くなるから、と。


 そのおかげか、俺の存在も始めから好意的に見てもらえたのかもしれない。


 椎名との勉強会は、午後六時に終了した。


 宿題もしたけれど、一緒にゲームをしたりサブスクで映画を見たりする時間もあり、冬休みの一日としては充実したものになった。



「じゃ、明日のクリスマス会で」


「うん。また明日……」



 玄関先で俺を見送る椎名は、バイバイのキスでも求めているような顔をしていた。


 俺はその期待には応えず、軽く手を振ってその場を後にする。



「……後でまた電話する!」



 椎名が切なそうに言うので、俺は一度振り返り、軽く頷く。



「わかった」


「ちゃんと出てよ!」


「タイミング次第だ」


「バカ!」


「申し訳ない」



 もう一度手を振り、今度こそ振り返らずにその場から離れる。


 たぶん、俺の姿が見えなくなるまで、椎名はずっと俺を見送っていた。



「……椎名って、こんなに健気な子だったのか?」



 もう少し淡泊で、大雑把な子だと思っていた。


 恋が椎名を変えた、ということだろうか。



「……俺も、人のことは言えないか。ずっと時雨先生のことばっかり考えてる」



 椎名と二人きりで遊んでいても、隣にいるのが時雨先生であればいいのにと思ってしまった。



「あー……クソ男」



 俺は椎名の好意を知りながら、それを利用して他の女性との恋を成就させようとしている。


 浮気しているつもりはない。椎名が本気で恋人としての関係を求めてきたら、それは拒絶するつもりでいる。たぶん、椎名もそれは察しているから、ギリギリの一線は越えてこない。少しずつ俺の気持ちを自分に向けよう……くらいには、考えているのかもしれない。



「……俺は時雨先生と幸せになりたいだけなのに」



 吐き出した息は、白く濁る。


 憂鬱な気分になりながら、俺は時雨先生の家を目指す。


 長居はできなくても、時雨先生と会って話をしたい。


 午後七時前に、時雨先生の家に到着。時雨先生は既に帰宅していて、俺を出迎えてくれた。


 菜々子さんの笑顔が眩しくて、気分もだいぶ良くなる。



「今日も来てくれてありがとう! ご飯、食べていくよね?」


「はい」


「じゃ、上がって。九時くらいまではいられるかな?」


「そうですね」



 靴を脱いで中に入ったら、玄関先で菜々子さんを正面から抱きしめる。菜々子さんも俺を抱きしめ返してくれた。


 それだけで、心が満たされる。



「……ちょっと元気ない? 何かあった?」



 菜々子さんの声はとても優しい。



「……あったような、ないような」


「今日は椎名さんの家に行ってたんだっけ?」


「はい」


「何をしてたの?」


「……いつも通りのことと、あと、少しだけ恋人っぽいことも」


「具体的には?」


「添い寝したり、ベッドで抱き合ったり、椎名の額に唇を押しつけたり」


「ほほぉ……。浮気の香りがするなぁ」


「そんなつもりはないんですけどね。でも……椎名は、俺のことを好きみたいです」


「でしょうね」


「……菜々子さん、気づいてたんですか?」


「毎日電話かけてくる女の子が、響弥君をただの友達だとか偽装彼氏だとか思ってるわけないよ」


「そうですか……」


「……響弥君は、このまま椎名さんと偽装カップルしてていいのか、悩んでるのかな? 椎名さんの気持ちに応えるつもりがないなら、椎名さんとは早めに距離を置くべきだ、とか」


「……そうですね。椎名が俺のことを好きななのは、都合が良いとは思います。その方が、俺と菜々子さんの関係を疑われにくくなりそうです。でも、俺と菜々子さんの都合のために、椎名を利用するのはどうだろうって……」


「……そうだねぇ。私が椎名さんの立場だったら、早めに距離を取ってほしいと思うかな」


「……それなら、やっぱり」


「ただ、それを決めるのは私でも響弥君でもなくて、椎名さんだとも思うよ。たとえ報われない恋だとしても、響弥君と一緒にいたいと思うのかもしれない」


「そんな子、いますかね?」


「わからない。だから、本人に確かめるしかない」


「どう訊けばいいんでしょう?」


「んー……椎名さん、響弥君は私に片想いしていると思ってるんだよね?」


「はい」


「なら、改めて伝えてみようか。自分の気持ちは変わらなくて、椎名さんを好きになることはないってこと」


「はい」


「それでも椎名さんが響弥君に片想いを続けるなら、それは好きにさせてあげればいい。報われない片想いを経験するのも、高校生なら悪くないと思う。っていうか、高校生の恋愛なんてそんなのばっかりでしょ? 報われない恋をたくさん経験して、人は少しずつ強くなっていく……」


「……ちょっと、こっちに都合の良い解釈ですけどね」


「うん。そうだね。ま、安心しなよ。失恋したくらいで死ぬ死ぬ言うのは、私みたいに精神お子ちゃまな人だけだから」


「菜々子さんの精神、お子ちゃまなんですか?」


「そうだよ? 気づいてなかった?」


「……恋愛に関してだけ、少し精神の脆い人だとは思っていました。それ以外については立派に大人だと思います」


「私はまだまだお子ちゃまだよ。いつまで経っても立派な大人になってなれる気がしない。……立派な大人っていうのがなんなのかも、実のところよくわからないんだけどさ。ま、とにかく、今後どうするかは、椎名さんにゆだねればいいよ」


「……はい」



 菜々子さんの意見が正しいと決まったわけではない。でも、何が正しいかなんて、今の段階でわかることじゃないとも思う。


 後々振り返って、俺たちの選択が正しかった、あるいは間違っていたとわかる。そんなものではないだろうか。



「……ただね、響弥君」


「はい」


「椎名さんが本気だからって、響弥君まで本気になったらダメだよ? 響弥君は私の恋人で、将来結ばれるの。響弥君が私以外の女の子と仲良くすることは許すけど、響弥君が恋していいのは私だけ」


「わかってます」


「私を裏切らないでね?」



 菜々子さんの指に力が籠もる。服を着ているので爪は食い込まないが、魂を捕まれるような感覚があった。



「俺は裏切りません」


「ん」



 話が一段落して、今度は長いキスを交わした。


 舌を絡め合い、唾液を混ぜ合うような、いやらしいキスだ。


 お互いの情欲を絡ませあって、高めあって、頭がおかしくなりそうだった。



「……どうしても必要になったら、キスまでは許すよ」



 長いキスを終えて、菜々子さんが冷たい声音で言った。



「俺と椎名がキスするのを許す、ってことですか?」


「うん。そう」


「……本当にいいんですか?」


「我慢する。本当は嫌だけど、私たちの未来のためなら、今だけは、我慢できる」


「……わかりました。どうしても避けられない流れになったら、そうします。そんなことにはなってほしくないですけど……」


「私も。本当は響弥君を独り占めしたい。他の誰にも会わせたくない」


「……それだけ求めてもらえて嬉しいですよ」


「ポジティブに捉えてくれる響弥君が大好き」


「相性は最高です。それにしても、菜々子さん、意外と寛容ですね」


「今だけだよ。自分が弱い立場だってわかってるから、仕方なく。……ま、俳優の彼氏が他の女の子の恋人役を演じるのは、我慢するって感じかな?」


「……菜々子さんが何でも許してくれるだなんて、勘違いしないようにします」


「ん。そうして」



 数秒見つめ合って、もう一度キスをした。



「ご飯、食べよっか? 昨日の残りのカレーだけど」


「はい。いただきます」



 それから、二人で食事をして、また肌を重ねて。


 あまりのんびりする暇もなく、午後九時前に俺は菜々子さんの部屋を後にする。



「いつも一緒にはいられないけど、会えるときには、なるべく一緒にいようね。大好きだよ」



 菜々子さんの優しい笑顔に励まされながら、一人きりの帰路を耐えしのいだ。

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