第33話 行き過ぎ

 * * *


(あたし、夜明のこと、好きだ)



 歌穂かほはその気持ちを胸の中に押し込めて、唇をきゅっと引き結ぶ。


 自分の気持ちについては、薄々わかっていた。夜明と偽装カップルを始めてから二週間ほどだが、今までよりも少し近い距離感で接する内、夜明のことをいつの間にか好きになっていた。


 話していて楽しい、一緒にいて心地良い、という友情に近い感情だと思っていたけれど、今日、自分の恋心を明確に自覚した。



(時雨先生に片想いしたままでも、自分と付き合ってほしいだなんて。あたし、どうかしてる……)



 以前まで、そんな半端な状態で付き合いたいだなんて思っていなかった。


 それなのに、今日はとっさに、それでもいいかもしれないと思ってしまった。


 夜明への想いが自分で思っている以上に強くて、どんな立場でもいいから本当の恋人になりたいと、感じてしまった。



(……相手の気持ちが自分に向いてないのに、立場だけ彼女になるなんて惨めなだけじゃん。バカじゃないの?

 けど……偽装じゃなくて、本物の恋人として接したら、夜明の気持ちも、あたしに向くんじゃないかな……? キスとかしたら、案外時雨先生のことなんてどうでも良くなっちゃうかも……。そんなこと、ない?

 キスだけじゃダメなら……シちゃう、とか? それくらいすれば、少しは気持ちも動くんじゃないの……?)



 悶々としながら、歌穂は問題集を眺める。眺めているだけで内容は頭に入っておらず、同じところを何度も読み返している。



「……椎名、ちょっといい?」


「あ、う、え? 何!?」



 夜明に話しかけられて、歌穂は無駄に動揺してしまった。


 顔を上げて、夜明と視線を合わせる。



「……いや、シャーペンの芯くれない? ってそれだけなんだけど……。急に話しかけて悪かった」


「あ、うん、わかった」



 歌穂はシャーペンの芯を取り出し、夜明に渡す。


 たったそれだけのことに、妙にドキドキしてしまう。



(……マジで意味わかんない。特別なことをしてるわけでもないのに、なんでこれだけのことにドキドキしてるわけ? 感情バグり過ぎでしょ)



「椎名、あんま進んでない気がするけど、なんかわかんねーの?」


「あ、えっと、そういうわけでも……」


「まぁ、俺と椎名って得意不得意が似通ってるから、椎名がわからんところは俺もわからんけどな」


「……うん。お互い理系だしね……」



 二人とも理系なので、来年のクラス分けで一緒になる可能性はある。


 そうなってほしいと、歌穂は願っている。



「椎名って、もうどこの大学行こうとか目標はあんの?」


「……目標としては、地元の国立大。でも、どこの学部に行きたいとかは何も考えてない。自分が何をしたいとか、まだわかんないし……」



 地元の国立大は、偏差値六十程度の難関校。簡単に入れるわけではないけれど、決して不可能でもない。壱ノ宮高校の成績上位者なら、とりあえずの目標としてイメージする場所だ。



「そっか。そういうところも似てるな。俺もその程度しか考えてないや」


「じゃあ、大学も一緒になるかもね……」



(そうなってほしい。夜明と一緒なら、きっと大学生活も楽しい)



「あたしたち、大学生になっても、偽装カップルやってるのかな?」


「どうかな? 流石にもうやめてるんじゃないか? 高校と違って、回りの目を気にする必要もないだろうし」


「……そうだよね」



 偽装カップルとして一緒にいられないのなら。


 本当のカップルとして、一緒にいるしかない。


 友達の距離感には、戻りたくない。



(夜明と離れたくない。ずっと一緒がいい。そのために、少しずつでも、距離を縮めていかないと。時雨先生のこと、忘れさせていく……っ)



 歌穂は決意を固めて、少しばかり作戦を練る。


 宿題を進めるフリをしながら、相変わらず中身は頭に入っていなかった。



 * * *



 椎名と宿題を進めること、二時間ほど。


 俺がそろそろ休憩をいれたくなったタイミングで、椎名もペンを置く。



「ちょっと疲れたね。休憩しよっか」


「ああ、うん。俺もそう言おうと思ったとこ」


「……ベッド、使う?」



 椎名の提案に、俺は首を傾げてしまう。



「え? なんで? 俺が来たときは、ベッドは使うなって言ってたろ」


「それは……でも、確かに彼女のベッドを使ったことがあるっていうの、カップルとして振る舞うにはいいかもなー、なんて」


「正気?」


「正気だし! と、とにかく夜明、一度ベッドに横になって! あたしもベッドで休むから!」


「はぁ? なんでそうなるんだ?」


「いいから! カップルなんだし、添い寝くらいは普通にするでしょ!?」


「まぁ……。掛け布団の上からでいいのか?」


「なんでもいい!」



 椎名が睨んでくるので、仕方なく椎名のベッドで仰向けに横たわる。枕からシャンプーの良い香りがするなと思っていたら、本当に椎名が隣にきた。



「……本当に添い寝するのか」


「何かおかしい?」


「色々と、おかしいのではないかな」


「うるさい」


「へい」


「……偽装でもカップルなんだし、もう少しくっついてもいいよね?」


「お、え?」



 椎名が俺の左腕にしがみついてくる。


 腕に、椎名の下着の感触。胸の柔らかさまでは、ぎりぎり感じない。


 ただ、夜明の息づかいは感じてしまう。椎名の温もりも、感じてしまう。



「……これは流石に過剰じゃないか? 偽装なんだし」


「……あたしが夜明との接触を嫌がったら、全然カップルっぽくないでしょ。これくらいは慣れておかないとダメ」


「……そう?」



 冷静に考えれば、ただの偽装カップルでここまでするのは過剰だ。


 椎名は……やっぱり、俺に好意でも抱いてるのかもしれない。


 偽装のためという名目で、俺に接触を試みている。


 俺が椎名と恋愛関係になるつもりがないのなら、ここは少し距離を取るべきだ。


 わかってはいるけれど、椎名が俺に本当の好意を向けてくれることは、俺と時雨先生の関係にとって都合が良い。


 本物のカップルに見えれば、俺と時雨先生が付き合っているだなんて、誰も思わなくなる。


 椎名の好意には、気づかないフリをした方が良い。


 ……本当に酷い考えだ。人として最悪ではなかろうか。女の子の好意を、他の女性との恋のために利用するだなんて。



「……夜明って、キス、したことある?」


「ない」



 嘘だけど。あるとは答えられないから、ないことにする。



「……キス、してみる?」


「偽装カップルでキスまではしないだろ」


「でも、キスもしたことがないなんて、カップルらしくないじゃん」


「キスもまだできないピュアな関係、じゃダメ?」


「高校生でそれは不自然でしょ」


「……妥協案。手、ちょっと離して」


「え、うん……」



 体の向きを変えて、椎名と向かい合う。


 近すぎる距離に、椎名の顔がある。


 顔の半分を覆う明るめの髪をかき分けて……その額に、軽く唇を押しつける。


 キス、とは思わない。キスは、時雨先生とだけするものだから。


 そして、唇はすぐに離した。



「わ、ちょ、何した!?」


「キスのまねごと。今のが俺の唇の感触なので、覚えておくように」


「ま、待って! 一瞬だけじゃよくわからない! もう一回やって!」


「……しかたないな」



 もう一度だけ、唇を椎名の額に押しつける。これはキスではない。


 唇を離して、距離を取る。椎名の顔は、耳まで真っ赤だった。



「覚えた?」


「……わかんない」


「でも、これ以上はなし」


「……つ、次はあたしの番、だよね?」



 俺の返事を待たず、今度は椎名が俺の額に唇を押しつけてくる。


 唇の柔らかな感触は、時雨先生とよく似ている。


 でも、時雨先生と触れ合うほどの感動も幸福感も、感じていない。ことにする。


 椎名からの接触は、たっぷり一分ほど続いて。



「……そろそろ、いいんじゃないかな?」


「……ん」



 椎名が離れる。その顔は相変わらず赤い。目も潤んでいる。



「これで、俺たちはキスもした関係ってことで」


「……仕方ないから、もうこれでいい。いいけど……」



 椎名の腕が俺の背中に回る。その腕に力が入る。体も密着させてくる。



「椎名?」


「この姿勢で、もう少し休憩ね」


「……わかった」



 行き過ぎた接触だとわかっている。時雨先生も、ここまで許してくれるかわからない。


 でも、俺と時雨先生の関係を隠すためには、椎名がいてくれた方が良いとも思う。


 ……時雨先生と、後で相談しよう。


 そう決めて、俺も椎名の体を軽く抱き寄せた。


 椎名は、どこか心地良さそうな吐息をはいたような気がする。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る