第7話 放課後

 放課後になった。


 部活をしていない高校生カップルだったら、放課後には二人でデートに繰り出すこともあるのだろう。


 俺と時雨先生の場合は、放課後だからって恋人らしいことができるわけじゃない。放課後に堂々と一緒にいられるわけではないし、そもそも時雨先生の勤務終了は午後七時過ぎだそうで、今から三時間近くも先の話。


 俺は高校生の身分だから、あまり遅く帰宅するわけにもいかない。たまになら良くても、毎日はダメだ。


 せめて、少しだけでも言葉を交わしたい。恋人同士としてではなくても、先生と生徒として。


 その思いが募り、俺は人生で初めて、時雨先生に勉強に関する質問をするため、職員室を訪れた。


 全く慣れない行動で、職員室の前に立つだけでも少し緊張してしまう。


 都合良く時雨先生が職員室から出てきてくれないかと願ったが、流石に無理だった。スマホに連絡を入れてみたくなったが、それは自重。万一でも、俺と時雨先生が私的に交流しているところを見られてはいけない。


 本当なら勉強に関する質問さえしない方が良いのだが……夜に電話するだけでは満足できない何かが、どうしてもあった。



「……仕方ない。行くか」



 軽く気合いを入れつつ、職員室のドアをノックし、ドアを開く。



「失礼します。一年B組、夜明響弥です。時雨先生に質問があって来ました」



 用件を告げると、時雨先生がすぐに反応し、こちらにやってきた。


 艶めくロングの黒髪を揺らし、微笑みを浮かべる姿は、相変わらずとても魅力的だ。


 その姿を見ているだけで、心臓が痛い。



「質問? 授業に関することでいいのかな?」


「……はい。少しお時間、いいでしょうか」



 生徒と先生の会話を心がける。何か、余計なものをにじませてはいけない。



「うん。いいよ。えっと……廊下でも、いいかな?」


「はい」



 二人で廊下に出て、職員室から少し離れる。


 隣に立つ時雨先生からは、淡いけれど爽やかな香水の香りが漂ってきた。



「珍しいね、夜明君が質問に来るなんて」


「……そうですね。俺もそろそろ真面目に勉強しようかと思いまして」


「何か目標でもできた?」


「そうですね……。具体的な目標ではありませんが、しっかりしないといけない理由ができました」


「……そう。それはいいことね」



 時雨先生の頬が少しだけ赤くなる。俺が言いたいことは伝わっているのだろう。時雨先生と共に生きる未来について、考えているということが。


 俺と時雨先生の間では伝わるが、他の人にはわからない。他の生徒が何人か通りかかっているが、何も問題にはなるまい。



「それで、質問なんですけど……」


「うん……」



 授業の内容について、予め用意しておいた質問をする。実のところ質問しなくても良いところではあったのだけれど、体裁は整えた。


 時雨先生も、俺の意図は察しているだろう。


 やり取りはすぐに終わって、俺と時雨先生が一緒にいる理由はなくなる。


 とても名残惜しい。下手に長居してはいけないと思っていたが、もう少し質問を用意しておけば良かった。


 俺は切り上げようとしたのだが、時雨先生が俺を引き留めるように言う。



「私の授業って、どう? ちゃんとわかりやすく教えられてるかな?」


「……ええ、俺はそう思います。わからないところがあれば、それは時雨先生のせいじゃなくて、生徒側の問題じゃないですかね? 基礎がなってないとか、化学が苦手だとか」


「そういう生徒にも伝わるようにするのが、私の仕事なんだけどね」


「一度に四十人以上の生徒に教えるなら、全員に理解できるように説明するのは難しいですよ。それは人類の限界を超えていると思います」


「そうかもね。理想を追い求めすぎても良くないね」


「時雨先生の授業はわかりやすいって、生徒の間では高評価です。安心してください」


「……わかった。ちょっとくらいは自信持っておく」


「はい。是非」



 時雨先生は話を続けたい雰囲気だったが、何かをこらえるような顔をして、再度口を開く。

 


「……それじゃ、今日はこれで」


「はい。ありがとうございました」


「……こちらこそ、ありがとう。色々、ね」



 色々とは、何か。


 会いに来てくれてありがとう。という意味も含まれていると、俺は勝手に解釈した。


 時雨先生が職員室に入り、俺はその背中が見えなくなるまで見送った。


 誰の目も気にせず、ずっと一緒にいられたらいいのに。



「……帰ろう」



 いつまでも突っ立っていてもしょうがない。余計な疑いを持たれないよう、学校ではドライな雰囲気でいなければならない。


 俺が昇降口まで来ると、椎名がいた。誰かとおしゃべりでもしているのかと思ったが、一人だった。



「どうした? 誰かと待ち合わせか?」


「うん。まぁ。……夜明は、どこに行ってたの?」


「俺は職員室まで」


「職員室? なんで?」


「ちょっと、質問をしに」


「へぇ? 誰に?」


「時雨先生」


「ふぅん……」



 なんとなく、意味深な呟きに聞こえた。



「……何かおかしい?」


「おかしいっていうか……珍しいね」


「まぁ、そうだな」


「初めてじゃない? わざわざ職員室まで訊きに行くなんて」


「……うん」



 だからなんだというのだろう? 珍しいことだが、決定的におかしい行動ではない。


 椎名は俺に近寄り、声を潜めて言った。



「もしかして、夜明って時雨先生のことが好きなの?」


「な、なんでそうなるんだよ?」



 俺の反応を見てか、椎名がニヤリと笑った。



「へぇ……そうなんだ。夜明って年上が好みだったんだ……」


「待てよ。時雨先生が好きだなんて、一言も言ってないだろ」


「言葉よりも態度に出てるじゃん。夜明が本当に時雨先生に興味を持ってないなら、はぁ? って呆れた顔をするはずだよ」


「それは……」


「別にいいと思うよ? 時雨先生に憧れてる男子なんてたくさんいるだろうし、夜明もその一人っていうだけ」



 どうやら、誤魔化すことはできないらしい。女子はこういうことに本当に鋭い。


 ここは素直に認めてしまう方が得策か。


 降参、と俺は両手を挙げて溜息を一つ。



「……椎名は鋭すぎ。まぁ、その通りだよ」


「やっぱりね」


「……どうせ報われない気持ちだけど、変にからかわれると俺も怒るぞ」


「からかうつもりなんてないよ。恋できるって、素敵なことでしょ?」


「……かもな。まぁ、俺はもう帰るよ。また明日」



 俺は一人で帰るつもりだったのだが、椎名が何故か隣に並ぶ。



「誰かを待ってるんじゃないのか?」


「あたしは夜明を待ってたんだよ」


「……なんで」


「夜明の雰囲気がなんとなく変だったから。もしや誰かに呼び出されて告白でもされるのかなー? とか思ってた。後をつけようかとも思ったけど、流石に趣味が悪いからやめたんだ。それで、結局なんだったのかを確認するために残ってたわけ」


「……しょうもないことを気にする奴だ」


「仕方ないでしょ? あたしの中では、夜明は一番接しやすい友達なんだから」


「……そうか」



 友達。


 そう思っていいんだな。それだけで、結構嬉しい。



「ねぇ、夜明って家に帰るだけだよね? ちょっと寄り道しない?」


「寄り道? 俺と椎名の二人で?」


「そう。二人で」


「なんで急に?」


「もう、いいかなと思って」


「何が?」


「夜明にちゃんと好きな人がいるってわかったから、二人で過ごしても夜明があたしを好きになることってないじゃん?」


「……俺に好意を持たれるのは迷惑だったか?」


「迷惑じゃないけど、友達としての夜明がいなくなるのは嫌だなって思ってた」


「複雑な乙女心だこと」


「まぁね。それで、どうする? 寄り道、する?」


「……まぁ、少しくらいなら」



 俺には時雨先生という恋人がいる。今の状況で他の女子と二人で過ごすのは気が引けるが……ここまで友達を強調する相手なら、ダメではない気がする。


 それに、下手に断ると、また意外なところから余計な勘ぐりをされるかもしれない。俺は恋人などいないというていで過ごすべきだ。


 さらに言えば、椎名との関係は良い隠れ蓑になるかもしれない。俺と椎名が親しいという風に見られれば、俺と時雨先生が特別な関係であることは露呈しにくくなる。


 友達としての節度は保ちつつ、椎名との関係は進めてみよう。


 小狡い計算が混じる友情に少々嫌気がさしたが、最優先は時雨先生との関係。


 椎名を利用するだけ利用して使い捨てる、なんてつもりは当然ないのだから、多少は許してほしい。


 心の中で謝罪しつつ、俺は椎名の隣を歩いた。

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