第6話 教室
* * *
菜々子さんと付き合い始めたことは誰にも言ってはいけない。
家族にはもちろん、友達にも。
もし世間に知られてしまえば、俺たちの関係が終わるだけじゃなく、特に菜々子さんの立場が危うくなってしまう。
学校内ではなるべく接触を避け、ただの先生と生徒として過ごすべき。
それはわかっているのだけれど……恋人を目の前にして、今まで通り過ごすのもなかなか難しいことだ。
月曜日の四時限目は、菜々子さんの授業。……いや、恋人として触れ合っているとき以外は、時雨先生と呼び続けた方がいいか。ふとしたときに間違って菜々子さんと呼ばないように。
四限目は時雨先生の化学の授業だ。
いつもなら真面目に勉学に励むのだが、今日は時雨先生に見とれてしまう時間が長い。見とれるだけじゃなく、色々と想像もしてしまう。唇の柔らかさとか、スーツの下の美しい肢体とか……。そのせいで、授業があまり頭に入ってこない。
俺が気持ちを切り替えられていない一方で、時雨先生はいつも通りに授業をしている。俺は時雨先生と目が合うと動揺してしまうのだが、時雨先生は何の反応もしない。
これが年の功という奴かもしれない。初めて女性と付き合い始めた俺と、既に色々な経験を積んでいる時雨先生では、反応に違いが出るのは当然だ。
それでも……少しばかり、悔しい気持ちにはなってしまう。
俺と目が合うだけで赤面したり、動揺したりしてくれればいいのに。なんて。
もちろん、それが俺たちの関係にとって致命傷になりうることもわかっている。男子はともかく、女子はそういう反応に敏感だ。時雨先生の様子に異変があればすぐに気づき、その原因が俺であることにも思い至ることだろう。
俺たちは、学校内では先生と生徒。それを徹底している必要がある。
今のままが、一番……。
無駄にもやもやしていると、授業が終わる。
時雨先生はいつも通り、にこやかな笑顔で去っていった。
ちらりと俺と目が合った気がするが、時雨先生からすると単に教室の皆のことを見ていただけかもしれない。
これが大人の対応ってことかな。
「はぁ……」
軽く溜息を吐いていると。
「夜明、どうしたの? 珍しく陰気な溜息なんて吐いて」
いや、厳密には友達と称して良いかはわからない。俺の友達である
椎名は若干色素の薄い髪をボブカットにしていて、快活な印象がある。部活はしていないのだが、ほっそりしたしなやかな体つきは魅力的。紺のブレザー姿もよく似合っている。顔も可愛らしいので、男子人気は高い。
ただ、本人が恋愛に興味がないようで、彼氏はいない。
「……男の溜息なんかに深い意味はない。魔法を使いたいとか贅沢言わないから、せめて透視能力がほしいなって思ってただけだよ」
「ああ、わかる」
「わかるのかよ! お前、裸を見たい男子でもいるのか!?」
「裸が見たいんじゃなくて、男子のあれのサイズが気になるだけだよ? お、あのイケメン意外と小さいなぁ、ニヤニヤ……とかやってみたい」
「性格悪いな」
「男子だってやるんでしょ? あいつ胸小さいな、ニヤニヤとか」
「……男子の名誉のため黙秘権を行使する」
「沈黙もまた答えだ、って最初に言い出したのは誰なんだろうね?」
「……さて、誰だろうね?」
話している間に、椎名は俺の前の席に座る。本来そこに座るべき男子は、昼休みなので食堂に向かったところだ。
「……ちなみに、亮介と赤木さん、今日は二人でどっか行ったか?」
「そうだね。今日は二人で食べるってさ」
椎名は俺の机で弁当を広げつつ、話を続ける。俺も母親が作った弁当を机に置いた。
「お熱いことで」
「あの二人はお似合いだと思うし、いいことだよ」
「まぁなー」
「あの二人からすると、あたしと夜明を二人きりにしたいっていう意図もあるみたいだけどね」
「なんだ、それ」
「わかるでしょ? あたしと夜明をくっつけたがってるの。優香はよく言ってるよ。歌穂と夜明君が付き合ったら、ダブルデートできるね! とかなんとか」
「……それを恥じらいもせず平然と言う辺り、俺とくっつく気持ちはなさそうだな」
「まぁねー」
俺は時雨先生と付き合い始めたわけだから、椎名に全く興味を持たれていないことを悲しむことはない。ただ、多少は意識してくれていても良いのではないかなぁ、と思わないでもない。男子のプライド的に。
俺には目立った特徴があるわけではないから、仕方ないことなのだけれど。
「椎名って、恋愛に興味あるの?」
「興味はあるし、彼氏が欲しいとも思ってる」
「そうなん? 全然興味なさそうなのに」
「優先順位は低いかな。あたしはあたしのやりたいことを最優先でやって、そのおまけ程度に都合良く付き合える彼氏が欲しい」
「うわ、男を萎えさせる恋愛観……」
「仕方ないでしょ。世の中楽しいことがたくさんあるんだから」
「まぁ、それもそうだ」
「今までに恋愛が世界で一番楽しいことだった時代があったのかは知らない。でも、少なくとも今はそうじゃない」
「ドライな奴」
「それがあたしだから、仕方ない」
椎名はドライだが、俺としては絡みやすい相手だ。恋愛第一で生きている女子だったら、一緒に過ごすのに疲れてしまったかもしれない。それに、時雨先生と付き合っている以上、恋愛に発展する気配のある相手とあまり仲良くするべきでもない。
このドライさは、今の俺には丁度良い。
「……椎名だったら、都合のいい彼氏だってできる気がする」
「そんなの失礼でしょ。都合のいい彼氏は欲しいけど、実際にいたら申し訳なくて別れたくなる」
「生真面目だな」
「あたしはテキトーな人間だよ。恋愛に関しては、いい加減にできないって思ってるだけ」
「ふぅん……」
「でも、高校生のうちにキスくらいはしてみたいなぁ。夜明、ちょっとあたしとキスしてみない?」
「何言ってんだ。そういうのはちゃんと好き合っている同士でやれ」
「少なくとも夜明はあたしのこと好きでしょ?」
「勝手に決めんな! 全ての男子が椎名に惚れるわけじゃないぞ!?」
「あれ? 違うの? それにしては、いつもあたしの胸ばかり見てるような……」
「そんなに見てないだろ! 全く見てないとは言えないけど!」
「あたしの本体はおっぱいで、それ以外は付属品とか思ってるんじゃないの?」
「教室で堂々とそういうワードを使うな! そして俺は別に胸だけに関心がある変態じゃねぇ! ちゃんと太股とか尻も好きだ! 脇もいいぞ!」
「ぷはっ」
俺は大抵の女子がドン引きしそうなことを口にしているのだが、椎名はケラケラと愉快そうに笑っている。
女子女子した感じではなくて、こうしてちょっと行きすぎた話をできる性格は、俺としてはとても好ましい。女子としてではなく、友達のような存在として。
「夜明とは会話が弾むねぇ。なかなか希有な存在だよ」
「……男子同士のノリでの盛り上がり方だけどな」
「それがいいんだよ。女子同士のノリも、男女のノリも、ちょっと面倒臭いからさ」
「……そっか」
椎名とまともに話すようになったのはここ二ヶ月くらいの話。過去のことなどほとんど知らない。色々あったのだろうな、とは察する。
食事が終わった後も、昼休みの間、俺と椎名は談笑を続けた。
傍から見るとカップルのようにも見えるかもしれないが、お互いに恋愛感情はない。
俺が時雨先生と付き合っていなかったら、いつかこの関係性も変わっていたかもしれない。でも、もうその未来は来ないだろう。
きっと。
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