第2話 部屋
「まさか、傷ついた恋人をこのまま一人で帰すなんて言わないよね? 一緒にいてくれるよね? そうだよね? 夜明君は優しいもんね?」
時雨先生が俺の服の袖を掴み、瞳孔が開いていそうな目で問いかけてくる。
ドロッとした何かを感じ、俺は頷くしかなかった。
幸い今日は土曜日で、両親には少し遅くなると伝えておけば問題は起きない。いっそ、友達の家に泊まる、とでも言っておけば、帰りは明日でも構わない。
ついでに、期末試験も終わっているので、熱心に勉強に励む必要はない。
……というか、泊まりになる可能性、あるのか?
「私の家まで案内するよ。それで、一人きりは寂しいから、今夜はずっと一緒にいてほしいな」
「……わかりました」
時雨先生の家に、泊まり。
相手は高校生ではなくて、もう大人の女性。
泊まりというのはつまり、そういう誘いなのだろうか?
普通に考えれば、先生が生徒に手を出すのは悪いことだ。そもそも、成人女性が未成年の男子に手を出すのも危うい。
それでも、今の時雨先生はそういうのを考えないかもしれない。
人生なんてどうでもいい、と投げやりになっている今なら。
「……とりあえず、親に、友達の家に泊まるって連絡します」
「うん」
ポケットからスマホを取り出し、親にメッセージを送る。
友達の家に泊まると連絡すると、すぐに了解の返事。男子の扱いなんてこんなもんか。
「……連絡しました。それじゃあ、行きましょうか」
ベンチから立ち上がり、二人で並んで歩く。
時雨先生の冷え切った右手が、俺の左手を掴んだ。いわゆる恋人繋ぎになる。
「恋人なんだから、手くらい繋いでくれるよね?」
「もちろんですよ」
知り合いに見られたらまずい。でも、拒否できる雰囲気ではない。俺としても、拒否したいわけではない。
惚れた女性と手を繋ぐのは、嬉しいに決まっている。
そこはかとなく病んだ空気をまとう人だからといって、俺の気持ちは揺らいでいない。
せめてもの抵抗として、ジャケットのフードを深く被る。多少は人目を避けられるだろう。
「秘密の恋って、ドキドキするね?」
「……全くです」
ドキドキするし、ヒヤヒヤもする。
この恋が上手く行く未来も、あまり想像はできない。
学校関係者にバレれば、破滅するのは時雨先生の方。大人としての責任を問われる。時雨先生の立場を思いやるならば、人前で手を繋ぐのはやめた方がいい。
わかってはいるのだが……俺も、今の状況に背徳的な喜びを感じてしまっていて、流されてしまっているのだ。
時雨先生の住む一人暮らし用マンションは、公園から徒歩で十五分ほどのところにあった。さらに言えば、俺の通う壱ノ宮高校からは徒歩と電車で三十分ほど。
町を歩いて知り合いに遭遇する機会もなかなかないのだろうけれど、学校からかなり近いというだけでもドキドキしてしまった。
オートロックのエントランスを抜けて、エレベーターで四階まで上がる。住人とはすれ違わなかった。
四○二号室のドアの前に立ち、時雨先生が鍵を開けた。
ここを抜けたら、いよいよもう引き返せないな。
まぁいいか。俺、時雨先生のこと、好きだから。
「どうぞ?」
微笑みを張り付けた時雨先生がドアを開き、俺を部屋に招き入れる。
一人暮らしの女性の部屋に入るのは、ひどく緊張した。
軽く呼吸を整え、中へ踏み込む。
「お邪魔します」
部屋は一般的なワンルームで、七畳くらいの広さ。家具には目立った特徴はないのだが、壁にはアニメ系のポスターが貼ってあったり、本棚には漫画やラノベが納められている。親近感が湧いて、少しだけ緊張がほぐれた。
「時雨先生も、漫画とか好きなんですか?」
「好きだよ。高校生からすると意外かな?」
「少し。大人になったら漫画を読まないなんてことはないでしょうけど、時雨先生はもっとキラキラした雰囲気がありましたから……」
「キラキラねぇ……。そう見えるとしても、それは関係ないよ。漫画とかアニメは面白いから、大多数の人が好きになるのは自然なことだもの」
「……そうですね。日本の映画でも、興行収入上位はアニメ作品ですもんね」
「そうそう。まぁ、十歳くらい年上の先輩は、こんなこと言ってたかな。『昔はコスプレしてる人なんて奇異の目で見られてたけど、今じゃむしろ尊敬すらされてるから、時代は変わったなぁ』なんて」
「昔はそうだったらしいですね」
会話をしながら、時雨先生は肩に掛けていたバッグを床に下ろす。暖房もつけた。
「夜明君も楽にしていいよ。バッグは置いて、上着は貸して。掛けておくから」
「あ、はい」
俺もボディバッグを置き、ジャケットは時雨先生に渡す。時雨先生は、自分のコートと一緒にそれをハンガーラックに掛けた。
「ねぇ、夜明君……あ、恋人なんだから、響弥君かな? 私のことも菜々子って呼んでくれていいよ」
「……はい」
「菜々子って、呼んでみて?」
女性の名前を呼ぶ。今までの俺の人生にはなかったこと。
大人になればきっと簡単なことだろうけれど、俺にとっては一大事。
「な……菜々子……さん」
心臓の鼓動が早くなる。体温も上がる。
「呼び捨てでもいいよ? 恋人同士でしょ?」
「……でも、菜々子、さんは、年上ですし……。菜々子さんも、俺を響弥君って呼んでますし……」
「それもそうだね。あと、しゃべり方ももっと砕けていいんだけどなぁ。まぁ、急には難しいかな。追々ね」
「……はい」
「それで、響弥君は、もう夕食は済ませた?」
「いえ、まだです」
「私も。……冷凍のパスタとかならすぐにできるけど、それでいい?」
「俺は、なんでも」
「ごめんね。初めて一緒に食べる食事なのに、適当で」
「……構いませんよ」
そもそも、俺たちは恋人同士という肩書きになっているけれど、時雨先生……菜々子さんは、俺に恋しているわけではない。自棄になって、心をの隙間を俺で埋めようとしているだけ。俺の扱いが雑になるのも仕方ない。
本当に大事な恋人だったら、帰り道でどこかのレストランにでも寄っていたのかもしれない。あるいは、手料理を振る舞おうとしたのかもしれない。そう思うと少し寂しくはあるけれど、今は気にしない。
十分ほどして、部屋にある座卓に、パスタやパック野菜が並んだ。
座卓は一人暮らし用の小さなもので、二人分の食事が辛うじて収まっている。
向かい合って座り、食事を開始。手作りではなくても、男子高校生なんてとりあえずお腹一杯食べられればなんでもいい。ありがたくいただく。
「響弥君、ありがとね」
不意に菜々子さんが言って、俺は首を傾げる。
「何がですか?」
「……私と一緒にいてくれること」
「……それは、まぁ、恋人ですから」
「そうだね。恋人だもんね。普通のことだよね」
フフ。菜々子さんの微笑みは寂しげだ。
きっと、公園で見たあの男性のことを、考えているのだろう。
「……俺、菜々子さんを幸せにしたいです」
「そう? ありがとう。期待してる」
期待してなさそうな、いっそどうでも良いというような口調に、悔しくなった。
「……俺、まだ高校生のガキですけど、小学生みたいに何もできないわけじゃ、ないですから」
「……うん。そうだね」
特別に盛り上がることもなく、淡々と食事を終える。
洗い物はどうにか俺がやることにして、それも終えた後。
菜々子さんが俺に抱きついてくる。
香る甘い香りに、柔らかな感触。
「じゃあ、しよっか」
かすれた囁きに、ゾクゾクした。
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