偽装彼女がやがて本気になる。でも、俺は先生との秘密の恋を成就させたい。
春一
第1話 恋
失恋して泣く
寂れた公園の片隅で、時雨先生は、ベンチに座って顔を両手で覆っている。
こぼれる嗚咽も、胸元で揺れる黒髪も、震える背中も、心をえぐるような魅力があった。
十二月初旬の冷えた夜というのも、その魅力をさらに引き立てている。切なさがぐっと芯に迫ってくる。
これはどこか歪んだ感情なのかもしれないけれど、否定しようのない感情だった。
時雨先生はまだ大学を出たばかりの高校教師一年生で、今年二十三歳。いつも明るい笑顔を振りまく彼女には感じない魅力を、俺は感じてしまった。ただの美人教師にはない魅力が、俺の胸を打ったのだ。
要するに、俺はこの瞬間に、時雨先生に惚れてしまった。
「……さて、どうしようか」
友人宅からの帰宅途中にある小さな公園で、俺はたまたま
時雨先生が男性となにやら揉めていて、男性の方は素っ気ない態度だが、時雨先生は必死に追いすがっているようだった。暴漢に襲われているなどというシーンではなく、恋人同士が別れ話をしているのは明らかだった。
盗み見も盗み聞きもするべきじゃないとは思ったのだが……俺もまだ高校一年生のガキなんだ。好奇心を抑えられず、物陰に潜んで成り行きを見届けてしまった。
「……良い見せ物でした、はいさようなら、って雰囲気でもないよなぁ」
時雨先生は泣き続けている。
このまま放置しておくのは気が引けるけれど、かといって俺に何ができるかもわからない。
放っておいてほしいのかもしれない。自分の知っている生徒に、泣いているところなんて見られたくないかもしれない。このまま、俺は速やかに帰るべきかもしれない。
「……いや、このまま帰っても、先生のことが気になりすぎるな」
今、時雨先生は夜の公園に一人きり。さらには、精神的にとても無防備だろう。
不審者に近づかれても、まともに反応できないかもしれない。
それなら、せめて時雨先生が泣きやむまでは、俺が側にいれば良い。
覚悟を決めて、俺は時雨先生に近づく。小さな公園なので、ほんの数メートルの距離だ。
ただ、近づきすぎないようにはする。先生の涙を邪魔せず、他人が近づくのを妨害できる距離感。
時雨先生は、俺の接近などお構いなしで泣き続けている。
さめざめと、というのはこういう泣き方をいうのだろうか。
じっと見つめるものでもないと思うので、視線はどこか遠くに外した。
視界に納めていなくても、耳を振るわせる嗚咽は、俺の心まで振るわせた。
見守るだけではなく、とりあえず何か声をかけるべきではないかとも思ったけれど、泣いている女性になんと言えば良いのかはわからない。
内心オロオロしている間に、十分ほどの時間が流れた。時刻は、七時半を回っている。気温も十度前後なので、じっとしていると体もだんだん冷えてきた。きっと、時雨先生もそうだろう。
涙の気配も少し落ち着いてきたので、いい加減声をかけることにした。
「時雨先生、隣、失礼します」
控えめに声をかけながら先生の隣に座る。
すると、時雨先生がバッと顔を上げ、目を見開いて俺を見つめる。
「
「こんばんは。
「それは、だって、私の受け持っている生徒だもの……。当然でしょ……」
「まぁ、卒業して何年も経ってるわけじゃないので、そういうものかもしれませんね」
「……夜明君、いつからいたの?」
「時雨先生の元カレが、『俺、他に好きな人ができたんだ。別れよう』って言い出した辺りからです」
時雨先生が頬をひきつらせる。
「……それ、ほぼ全部見てたってこと……?」
「まぁ、たぶんそうです」
時雨先生が渋面を作り、しかしすぐに脱力する。
「……プライベートな空間にいたわけじゃないから、人に見られても仕方ないよね。でも……恥ずかしいなぁ……。まさか、自分の生徒に見られるなんて……」
時雨先生は深い溜息をつく。脱力した繊細な顔も、美しいと思う。
「盗み見してしまってすいません。このことは誰にも言いませんから、その辺は安心してください」
「うん……。ありがとう……」
「たくさん泣きましたけど、少し、元気が出ましたか?」
「……全然。もう、このまま寒さに凍えて死んじゃってもいいやって感じ……」
力のない言葉が、時雨先生には似合わない。
泣いている時雨先生は美しかったけれど、やっぱり、笑っている彼女の方が良い。
「……俺は、時雨先生が死んじゃったら嫌ですよ」
「……じゃあ、夜明君が私の彼氏になって、私を支えてくれる?」
「え……?」
時雨先生がうっすらと微笑んでいる。雪女や、氷の魔女が浮かべるような、ぞっとする類の笑みだった。
その笑みに囚われれば破滅に向かってしまいそうなのに、俺はその魅力に抗えなかった。
「俺を、彼氏にしてくれるんですか?」
「いいよ? 私、今、フリーだし。もう……なんかどうでもいいし」
「そうですか……」
いつも明るい時雨先生。
学校ではそう見えていたけれど、どうやらそれはほんの一面に過ぎなかったらしい。
時雨先生の本質は、もっと危うくて脆い。
失恋一つで、全部がどうでも良くなってしまうくらいに。
そんな時雨先生も好きだ。
でも、またあの明るい笑顔を見せてほしい。
俺が彼氏になることでそれが叶うのなら、いくらでも彼氏になってやる。
……先生と生徒という、禁断の恋と呼ばれるものだったとしても。
「……俺を、時雨先生の彼氏にしてください」
時雨先生が無言でそっと俺の頬に両手を添える。冷え切った指先は、本当に雪女のようだった。
時雨先生の端正な顔が近づく。美しい瞳、滑らかな肌、紅を引いた唇に、ドキッとした。
時雨先生が目を閉じて、唇を重ねてきた。
冷たくて、柔らかな感触。吐息だけは温かくて、時雨先生がちゃんと生きていることを感じられた。
さらに、柔らかく湿ったものが俺の口内に押し込まれる。
それが人間の舌だと気づくのに、少しだけ時間がかかった。
人間の舌というのは、こんなにも生々しいものだったのか。
初めての感触に、全身が何かに目覚めるような気がした。
遠慮のない深いキスは長く続いた。
ようやく時雨先生が離れたとき、俺は熱に浮かされて頭がぼうっとしていた。
「……これから宜しくね、夜明君」
時雨先生が再び唇の端をつり上げる。
大げさな言い方をすれば、俺は悪魔と契約を交わしたような気分だった。
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