日常業務

「おはようございます」


 早朝。人もまばらな合同庁舎に出勤したユリウスは、警備兵に挨拶をしつつ、まずは1階に設けられた郵便受けを確認する。『第44歩兵大隊のオイベルツ移駐に関する新駐屯地設置の許可申請に関する申入書』、『オイベルツ駐屯地勤務下士官及び兵卒の勤務実態調査結果に関する報告書』、『第33ライフル歩兵連隊隷下部隊の定期査察について』……


(今日の書類は厄介なものが多いな)


 郵便受けの中身を取り出し、それらの封筒を検め一通りその内容を確認した後、ユリウスは溜息をついた。


 『軍内検察』という異名を取る通り、軍内部における法務官の権限は強大であり、その存在は畏怖と共に受け止められることが多い。しかし――2週間ほど補佐官として勤務して分かったことだが、その業務は想像以上に地味なものであった。


 郵便受けの中にあった書類のように、駐屯地の新設及び増設に必要な用地取得やそれに関連する民間事業者との交渉において必要な法的文書の作成、管轄区域内の部隊所属将兵の労働状況の調査を含めた定期及び不定期の査察、軍需用品の不法領得――要するに横領が存在しないかなどの調査など。


 書類作業だけでなく、現地に足を運んでの査察なども含めれば極めて膨大な業務量になるため、ユリウスは軍に入って以来最も忙しい日々を過ごしていた。法務官付補佐官は軍法の規定によって『特別の役職官に準じる』待遇を受けるとされているため、通常の俸給に加えて特別手当が付くなど、役得がないわけでもないのだが、それにしても見合わぬ激務と言ってもいいほどであった。


 逆に考えると、この業務量を補佐官なしでこなしてきた歴代の法務官達が化け物じみているとも言えるのだが。


 ともかく、膨大な業務をこなすために、自然とユリウスは早朝に起床し、そして始業時間より前に法務官事務所に足を運ぶようになっていた。幸いだったのは、彼がこのような――法文と手元の案件を突き合わせ、その粗を探すといった――仕事に対するを持ち合わせていたことであろう。


 封筒などを鞄に詰めた後、管理部で事務所のカギを受け取り3階に向かう。事務所に入り、机の上に鞄を置き準備を始める。まず最初にやることは、やってきた書類を緊急度が高い順番に並べ替え、急ぎの案件であれば優先して処理できるようにすることだ。あとは案件を見ながら、使いそうな文献を書庫から持ってきて執務机に並べ、資料などを準備する。


 やらねばならぬ仕事ではないが、やっておいた方が良い仕事と言えば、彼の上司のお気に入り銘柄の紅茶を淹れ、菓子を用意しておくことも忘れてはならない。更に言えば、紅茶の温度にすらうるさいため、その点も気を付けねばならない。2週間も経てば慣れたもので、最初のうちは手こずっていた紅茶の淹れ方などもすっかり板についたものであった。


 そうこうしているうちに、朝の準備を終え、補佐官用に新しく設えられた椅子に腰を落ち着けた瞬間。呼び鈴が鳴らされた。


「はい」

『ライヒェンベルガーです』

「今開けます」


 ドアを開けると、両手を顔の前にやり、白い息を吐き出しているレーネの姿があった。コートを羽織った格好の彼女に対して、ユリウスは深々と礼をする。


「おはよう」

「おはようございます、少尉殿」

「今日も早いですね、感心なことです」

「既に仕事の準備はしてあります」

「茶と菓子は?」

「それもぬかりなく」


 ユリウスがそう言うと、レーネは満足そうに微笑んだ。コートを受け取って一先ず衣装掛けに掛けてから、レーネを事務所の中へと案内する。執務机に並べられたカップと皿に、彼女は口元を緩めた。


「いただきます」


 そう言ってレーネは紅茶を一口飲むと、目を瞑ってじっくりと味わってから、皿に置かれた焼き菓子を一つ取って口に入れた。


「このお菓子も美味しいですね、どこで買ってきたものですか?」

「中央通りの北側にある『ReichsKrone』という店のものです。気に入っていただけたようで何よりです」

「そうですか。紅茶とよく合うので、今度買いに行くことにしようかと思います」


 数分で紅茶と菓子は机からきれいさっぱりと消え去り、レーネは『ごちそうさまでした』とこちらに小さく礼をした。


「戻してきます」


 執務机からカップと皿を下げ、洗って棚に戻す。ついでに明日の分の茶も用意してから執務室に戻ると、既に彼女は机の上に並べられた書類に目を通し、ペンを走らせ始めていた。ユリウスも席に着き、彼女が要望する書物の準備や電話対応、あるいは他所への電話といった業務をこなす。


 今日も同じ日常が始まった。


――――――――――


 その日が日常から少し逸れたのは、始業時間から4時間ほど過ぎた頃だった。


 その時は、ユリウスは昼の休憩も兼ねて彼自身と上司の2人分の食事を買って帰ってきたところであった。大麦パンと簡単な軽食で出来た、仕事漬けワーカーホリック向けの昼食を2人で黙々と摂る空間に、呼び鈴の音が響く。


 ユリウスは反射的にさっと立ち上がり、ドアの方へと駆け寄り応対する。


「はい、どちら様でしょうか」

『バエルニカ師管区憲兵隊オイベルツ分遣隊の者です』

「お待ちください」


 ユリウスはそう言って来訪者を待たせ、レーネの方を見る。彼女は小さく頷いており、それを見てユリウスはドアを開けて応対する。扉の先から現れたのは、大柄な体を一般の灰色の軍服よりも濃い黒色の憲兵用制服に身を包んだ男性であった。男性の腕には野戦憲兵フェルトイェーガーと記された憲兵の腕章が巻かれていた。


「改めて、小官はバエルニカ師管区憲兵隊オイベルツ分遣隊長のヘルムート・マックス・ヘーブラー憲兵大尉と申します、ライヒェンベルガー法務少尉はどちらに?」

「えーーっと……」


 ヘーブラー憲兵大尉と名乗った男性の質問に対してユリウスはレーネの方をちらりと見る。彼女は立ち上がってヘーブラー憲兵大尉の前まで歩いてきて、口を開いた。


「憲兵大尉殿、ご足労いただきありがとうございます。私がオイベルツ連隊区法務官のレーネ・アマーリア・ライヒェンベルガー法務少尉で、こっちは私の補佐官のユリウス・ベルング・ランツ軍曹です」

「……?」


 レーネの姿を見たヘーブラー憲兵大尉は――これまで事務所にやってきた人々がしてきたように――怪訝そうな顔で彼女を見つめる。彼の反応を見たレーネは何も言わずに軍服の胸ポケットに仕舞っている身分証を彼に提示した。


 数秒、憲兵大尉は身分証とレーネの顔を交互に見ていたが、すぐに身分証を彼女に返し、小さく頭を下げた。


「まさかその……貴官のような若き女性が法務官であるとは信じられず。疑ってしまったことをお詫び申し上げます。礼節に掛けた行動を取ってしまい申し訳ありません」

「大丈夫です大尉殿。疑われるのには慣れておりますので、お気になさらず。……立ち話もなんですし、中へどうぞ。軍曹、すぐにお茶と菓子の準備を」

「はっ」


 レーネに言われ、ユリウスはすぐにお茶と菓子の準備に取り掛かる。明日のために準備しておいたと思いつつ、2人分の紅茶入りのカップと茶菓子を数分で用意し、応接用のソファに座るレーネとヘーブラー憲兵大尉の下へと運ぶ。


「茶と菓子をお持ちしました。お召し上がりください」

「ありがとう」


 レーネとヘーブラー憲兵大尉の下にカップと皿を置き、ユリウスは記録用のメモ帳を引っ張り出してからレーネの後ろに移動する。こういった来客との面会時の書記役なども、補佐官の役目である。


「それで憲兵大尉殿、本日はどのような用件で?」


 ユリウスがメモの準備を終えたと見るや否や、レーネはそう切り出した。ヘーブラー憲兵大尉は返答する代わりに持参していた鞄の中から書類を取り出し、彼女に差し出す。ユリウスもその書類に目をやると、表紙に『部外秘』と書かれているのが見えた。


「これは?」

「……先日オイベルツ連隊区で行われた野外演習。その際に発生した――大規模な兵器紛失についての資料です」

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陸軍法務官レーネ・アマーリア・ライヒェンベルガーの軍務事件簿 ペルソナ・ノン・グラータ @Natrium0116

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