教師と答え合わせ
寮の集会室において、私の手足は椅子に縛り付けられていた。鎖は今日も切れそうにない。切れると思ったことも一度もない。
ガイン先生は私の顎を後ろから支え、楽しげな声を響かせる。
「まったくも〜、危ないじゃないか。我が身を大事にしてよね、名無しちゃん」
右の席に座るユニの両足首は氷の鎖が巻かれている。ピンヒールの爪先を床に打ち付けたユニは、分かりやすく息を吐いていた。
バルバノット先生はユニ以上に大きな溜息をつく。
「ヨドも散々な目にあったらしいな」
砂で出来た丸い重りを両足につけられたノア。鱗の両腕と首にも砂の重りが下げられ、巨体が動く様子はない。
ヨド先生はノアの周りを白い尾でぐるりと囲い、細い舌を出し入れしている。
「全くだよ。どうしてあの場に
フィオネの口は背後から塞がれている。久しぶりに着座している少女は桃色の瞳で周囲を観察していた。
スー先生は仕方なさそうに微笑み、フィオネから手は離さない。
「フィオネも悪気はないのですよ。聞けば、朝の談話室で、ユニと名無しが図書室に集まる文字を書いていたのを見たそうですから」
湊の傷が増えている。彼の両足には固くギプスが巻かれており、緑眼は床の一点だけを見つめていた。
モズ先生は湊の背後で揺れ、包帯の裾が白く目立つ。
「地が揺れた時に
メルは鋭い歯を擦り合わせながら椅子に固定されている。丸い眼鏡の奥では赤茶の瞳が苛立ちを浮かべていた。
モニカ先生の体はメルの手足を椅子と共に包み、少女は爪を噛めない。
「仲良しになったのは良いことだけど、教師の邪魔をしたらダメだよ。聞いてる? メル」
それぞれが椅子に縛られ、自由のない今。
空に浮かぶ寮の中で、私達は向き合っていた。
まだ地面は揺れているのだろうか。まだパンデモニウムは騒がしいのだろうか。まだ第二階層に、ペディリとポルカはいるのだろうか。
宙では何も分からない。何も伝わってこない。この寮がこれほど隔絶された場所であるとは、今まで思ってもみなかった。
「名無しちゃんはエデンの子と知り合いだったんだね」
視界に紫の髪が入り込み、細く弧を描いた目元に問われる。声色は決して責めているわけではないのに、どうして私の肌は泡立つのか。
ガイン先生はゆるりと私の首を握った。
「銀のマスク、
聞いているくせに私の答えは求めていない。先生の目がそう示しているから。ポルカとの対面が楽しかろうと楽しくなかろうと、先生が気にする論点はそこではない。
「彼も孵化させる直前だったね。でも大丈夫、名無しちゃんの方が早い。こちらの方が一歩先を行ってるからね」
「そうとも言えないだろ。向こうは既にペディリが殻を纏っていた」
ガイン先生の声を遮るのはバルバノット先生だ。黒いプレートアーマーに室内灯を反射し、異形は腕を組む。
「こちらはまだ不完全だ。そろそろ殻へ移る段階へ移行しても問題はないだろ」
「先々へ行こうとすれば
「きょうだいが殻を纏えば生まれてきやすくなるのではないでしょうか? フィオネの準備はもう整う頃かと」
「スーに賛成。刺激って大事だよね。メルはどうだろう。いけるかな?」
「ノアはまだ難しい。ユニと名無しもだろう。
先生達が、何か話している。
こちらが知らないことを沢山言葉にして、会話して、私が寒気を感じていることにも気づかないまま。
メルと湊は首を緩く傾けている。視線からして先生達の言葉の意味を取りかねているのだろう。私と同じように。
口を塞がれたままのフィオネは足を揺らしている。脹脛の羽根が動いた少女は、いつも何を考えているか分からないのだ。
ノアとユニの重りが音を立てる。赤い爬虫類の目と視線が合うと、灰色の人外は眉間に深いシワを刻んでいた。
【" 人を殻呼ばわりするなんて最低なんだけど "】
内臓を掻き乱す声がする。自分の表皮から汗が滲むのが分かる。
スピーカーを没収されているユニは、首の痣に手を添えている。青みがかった白い瞳は前を向き、対面にいるモニカ先生を睨んでいると理解した。
オレンジのスライムはふるりと波打ち、メルを椅子から立たせない。
「ユニはどこまで気づいているのかな?」
「おおよそ察しているんだろう。この子は賢いから」
モニカ先生は生徒と話さない。問いかけた相手は同じ教師のバルバノット先生であり、黒い手はユニの口を塞いでいた。
私の脳裏にノアとユニの文字が再び浮かぶ。浮かべたくないのに、思い出してしまう。
〈失敗ではなかった 不完全で成功だった〉
〈野心のゲネシス フィロルドの卵を守る者 フィロルドの殻となる者 君の声はどんな者も平伏すさ〉
かつて流れた文字を気にし始めると止まらない。だから私は考えるのをやめて、嘘だと思って、見ないふりをしてしまったんだ。
そうでなければいいと思って。
そんなはずないと自分を否定して。
呼吸が微かに浅くなった私に、ガイン先生は気づいてる。
「名無しちゃんも気づいてるよね。君は、頭はいいから」
笑ってる。
魔族が笑ってる。
紫の瞳を瞼の間からチラつかせて。
尖った犬歯を唇から覗かせて。
艶のある紫の髪すら、熱を放っている気がした。
「喋らない名無しちゃんの代わりに、先生が答え合わせをしてあげよう。いいよね?」
顔を上げたガイン先生は他の教師に確認する。五人の教師はみんな揃って頷き、ガイン先生が小気味よく指を鳴らした。
「さて、みんな薄々気づいてるよね。孵った
ガイン先生が私の喉を撫で、顎のラインをマスク越しに辿り、耳に触れる。
「なら、どうすれば完全な
指が動いて私の横髪が掬われる。きっと先生には、私が浮かべた冷や汗も見えているだろう。
「みんな体づくりをしてきただろう? それぞれの第一属性に体が馴染むように訓練して、毎日慣らして、一歩一歩成長したはずだ。最初は魔力も魔術も知らなかった名無しちゃんでさえ炎の海に立てるようになってるんだ、フィオネちゃん達の成長も担任お墨付きだろう」
体づくり。
体づくりって、あぁ、そうか、そうか。
それは正しく、
「ユニは水の温度調整が上手くなった。熱湯も氷も操れる。水の中で呼吸する術も覚えてくれた。声の圧も磨きがかかってきているよ」
「湊も弓矢の飛距離が伸びたさね。空間把握能力の向上。ペリドットとして優しさの教育をしていた効果で、治癒力も上がっているさね」
「素敵ですね。フィオネは見ての通り、愛を吐いてどんどん軽くなっています。そよ風にも竜巻にも今の彼女なら乗れるでしょう」
「みんな偉いねぇ。メルも色んな果実や植物を育てられるになってるんだ。自分の食事を邪魔させない為のツルの強度は凄いんだから」
「ノアは元より魔術の嗜みがあったので、周りほど明らかな成長は見られないね。ただ精度も速度も上がってることは分かる。いい殻だ」
それぞれの担任が生徒を自慢する。偉いでしょう、成長したでしょう。褒められている生徒は、誰も笑っていないのに。
「体づくりで強くした肉体は健康でないと困るからね。きちんとした栄養、睡眠。欠損や妊娠があると困るから不純異性交友には意識を向けてたけど、君達に色事が起こらなくてよかった」
ガイン先生が後ろから私の頭を撫でる。丁寧に、丁寧に。
『名無しちゃーん、きちんと説明と弁解をするんだよ。青春万歳、先生は応援しよう。ただし不純異性交遊や身体欠損は無しにしてね。困るから』
あの時、教師として声をかけたこの人は、一体何を見据えていたのだろう。
私の顔の横に口を持ってきた先生は、ずっと、ずっと、笑ってる。
「ご飯、美味しかったよね? 名無しちゃん」
胃が、締め上げられた。
カラフルな野菜。黒くふかふかに炊かれたご飯。噛めば噛むほど染み出す肉汁。どんな料理も美味しくて、食べているのにお腹がすいて、胃を満たされる感覚と食事が終わる事実に寂しくなって。
パンデモニウムでの、唯一の楽しみだとさえ感じていた。
『食べていいよ。
今まで与えられてきた言葉の意味が変わってくる。
今まで向けられてきた態度の理由が変化する。
「理解しているよね、
ガイン先生の頬が、耳まで裂けそうなほど上がりきった。
「だから守って欲しいのさ。不完全な
思い出す、思い出す、思い出す。
私の脳裏に浮かんだのは一つのプレート。
違和感とさえ思わなかった、一つの事柄。
――私はフィオネを振り切って三階へ上がり、「ライラ」のプレートがかかった部屋に入る。
そう、そうだ。
この寮に私の部屋は無い。
豪華に
フィロルド、エーラ、リベール、グルン、アデル。
それぞれの為の部屋。
それぞれに準備された、ここは寝床。
「大丈夫、君達が苦しまなくていいように、俺達教師が刺激し続けるよ。君達の感情を。
泥濘に足が取られる。ズブズブと沈んでいく感覚がする。
もがきたいのに、もがくことすら許されなくて。気づけば足も胴も腕も沈んで、呼吸だけが許されていて。
「だから危ない所に行くのはダメだ。
「そのエデンとは、何だ」
軽やかに口を開くガイン先生に対し、ノアが重たく口を開く。低い声にはいくつもの感情が乗っている気がしたのに、受け取る先生の軽さは変わらない。
「エデンとはパンデモニウムを脅かす国。俺達魔族を悪だと決めつけ、討伐しようとする奴らさ」
軽快に手が打ち鳴らされる。
生徒は誰も身動きが取れない。
だから教師は勝手に喋る。勝手に進む。
私達の意思を、汲まないまま。
「それじゃあ、エデンについて授業をしようか」
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