泥濘と寒風
銀のマスクが視認できる。
白いパーカーのフードを被り、その上からつけている銀のヘッドフォンには細かな傷が増えていた。
白い上着の裾に入っているのは紫のライン。握られたフレイルには、まだ乾いていない血液が付着していた。
互いが互いの目を見て止まる。
ペディリが暴れる音はやんでいない。だから第二階層の喧騒も、止まらない。
うるさく揺れる世界の中で、嫌悪が内臓を刺激し続ける中で、私はどんな顔をしているのか。
残火で地面を焦がしながら、立ち上がる。
二度目の再会を果たした少年――ポルカは、肩に力を入れたままだった。
彼の黒い瞳は曇っている。薄雲がかかって、雨が降りそうで、しかし眉間に皺を寄せることによってそれを堪えた、形容しがたい目元。
ポルカは見えないものを否定するように首を横に振った後、重たい右足を踏み出した。
一歩が出れば、次の左足は少し早く。右足はより早く。早く、早く、前に出て、気づけば駆け出し、対する私は動けないままだった。
ポルカの右手が勢いよく私の腕を掴む。彼の左手が握っているフレイルは鎖の音を立て、私のモーニングスターにぶつかった。
陰りを帯びたたまま見開かれたポルカの目。私はその瞳から視線を逸らすことができず、真正面から見返した。
下瞼を歪めたポルカは私の腰へ視線を移す。彼がライラの入ったウエストポーチを見ていると気づいた私は、背中に冷たい汗が浮かんだ。
ポルカは、フレイルから手を離す。路地に金属音が木霊する。
――捨てろ、イグニ
彼のジェスチャーが私に意思を伝えた。
――それを抱えてちゃダメだ。今すぐ捨てて、パンデモニウムを離れよう。エデンの方がマシとは伝えられないけど、ここにいるのが間違ってることは分かるから
荒く動くポルカの意思をこぼすことなく拾う。彼が示す「それ」がライラであることも重々承知だ。
パンデモニウムを離れるなんてことは、考えたこともなかった。連れてこられた私が生きる場所は、パンデモニウムしかないと思っていたから。
でも、ここに居続けることに不安があるのも事実。
胸の中で徐々に広がる霧が如く。ユニやノアと文字を交換するごとに、フィオネの姿を見る度に、メルや湊が遠くを見つめる度に、
だからこれ以上、混乱しない為に見ないふりをして、気にしないようにして、自分は
あれ、待って、まただ。
また私、なにかちょっと、間違えてる気がする。
気をつけていたつもりなのに。どうして意識が
――イグニ
ポルカが私を揺さぶった。強い前後の振動に瞬きを繰り返し、自分のこめかみから汗が流れていると気づく。
なんだろう、なんだろう。
私が第二階層に来た理由は? パンデモニウムがうるさくて、壊れている気がしたから。だから元凶を正しに来たのだ。騒がしく喚くなと、世界に亀裂が入ると教える為に。
ライラの為ではない。私の為だ。でもライラが先導する世界だから、私は
渦巻く思考の波の中、私は今、一番に浮かんだ疑問を解消したい。
――どうして君はここに?
問いかければ、ポルカの顔に影がさす。問われたくないことだとすぐに分かる表情は、彼が変わらないことを示していた。
暑くて堪らない日、マスクをして笑った顔も。罰を受けて更生した姿も。エデンで喋る周囲を罰した事実も。
ポルカが素直だからできたこと。素直な彼だこそ、涼しくて笑い、罰を受けて考えを改め、異界でも喋る者を罰したのだ。
――ポルカ
モーニングスターを離して彼の手を取る。体温が高くなっている私にも負けず劣らず温かな手だ。
彼は目を伏せながら首を横に振る。私はその意味が汲み取れず、通りで騒ぐペディリの声に吐き気がした。
「予定時間をオーバーしました! 貴方のせいですよ! フィロルドの
【" 勝手な予定をこっちに求めるなよ "】
ユニの声が周囲に響き、内臓がねじれた気がする。目眩に揺れれば、ポルカも同様に冷や汗を浮かべていた。
互いに反射でマスクを押さえ、言葉の寒気に耐えている。
――最悪な声だな
――そうでしょ
同じ意見に息を吐き、それでも遠くに感じるポルカを見つめる。彼はウェストポーチに再び目を向け、握った手に力を込めた。
――帰ろう、イグニ
それは、すぐに理解できないジェスチャーだ。
瞬きを二回して、ポルカの目を見る。そこには微かな水の膜が張っていた。
花が萎れるように肩と頭を下げた彼は、体全体で呼吸をする。
――
顔を俯かせたままのポルカが、繋いでいた手を離して、後退する。覚束無い足は路地の薄闇に入り込み、両手がヘッドフォンを押さえつけた。
地が揺れる。ペディリの魔生物がユニに向かって腕を振り上げた様が視認でき、第二階層の騒音が激しくなった。
「フィロルド様とライラ様が来てくれたんだ!」「大丈夫、大丈夫だ、お二方が来てくださったから!」「きっと大丈夫」「守ってくださる」「きっと」「きっと」「きっと!」
私の耳に入る言葉の色が変わる。第二階層に来た時は言葉にすらなっていない慌てようだったのに、今は勝手な期待を口走っている。
逃げることも応戦することもやめて、ユニとペディリを見ている魔物達。その声に鳥肌が立った時、路地から飛び出す白がいた。
フレイルを振り被り、魔物に後方から殴りかかったポルカ。
少年に頭を殴打された魔物は倒れ込み、鮮血が宙を舞った。
また、声が変わる。期待から騒音へ戻っていく。
「こいつエデンのッ」「一人だ、捕まえろ!」「止めろ!」「追い出せ!」「なんでッ」「フィロルド様!」「ライラ様!」
ポルカは罰していた。喋る魔物を、騒ぐ魔物を、容赦なく。その言葉の意味を捨て去りながら。
ポルカの白い制服に赤が着く。瞳孔を細めて、喋る魔物を殴打し続ける彼は止まらない。止まれない。
何故ならそこに喋る者がいるから。
世界を危険に晒す行為を、見過ごせないから。
ポルカのフレイルが止まったのは、その場に立つ魔物がいなくなった時だ。
地面に倒れた者達の中心で、ポルカは肩で息をする。視線は遠くへ。幹の魔生物の地鳴りは無視して。ポルカはただ、息をする。
フレイルはより赤褐色に染まり、同じ色の雫が垂れる。少年の指先も赤黒い雫が付着した跡があり、呼吸は整わないままだった。
汚れた指先がヘッドフォンに触れる。ゆっくりと首に下げられたヘッドフォンは陽光を反射し、ポルカの視線はペディリの方へ向いた。
「ポルカ! ポルカはどこですか! 二人で相手した方が早いです! 来なさいポルカ!」
【" 一人で戦えもしないんだ "】
「自分のプライドよりも任務が優先です!」
ユニのスピーカーを小蠅のように跳ね除けて、魔生物が突き進む。ペディリの双眼は太陽と見紛う輝きを放ち、少女の体から魔力が溢れる様も確認できた。
ペディリを包むのは神々しすぎる魔力。こちらの目を焼く輝きはパンデモニウムでは見たことがなく、私は路地から出ることを少しだけ躊躇してしまった。
眩しすぎて見たくない。
うるさすぎて聞きたくない。
彼女はポルカを、呼んでいた。
目を細めた私の視界の中で、振り返ったのは一人だけ。
ポルカが私の顔を見る。眉尻を下げて、眉間に力を入れた表情で。その視線はずっと陰りを帯びているから、私の胸に刺さるのだ。
――うるさいな
無理やり笑ったポルカの顔は、色々な所に力が入って、皺くちゃだ。
――ここはずっと、うるさいな
揺れたフレイルの鎖が鳴る。
私のモーニングスターが重たくなる。
あらゆる声が溢れた街の片隅で。
向こうで声援。ユニを信じた魔族の声。
向こうで悲鳴。ペディリの花に食われた誰かの声。
向こうで呼声。騒音の元凶が放つ声。
私の鳥肌はやまない。ポルカの表情が晴れることもない。どうしたって私達は、喋るという行為を受け入れられないのだから。
ポルカの手が、動く。
――帰りたいな、
胸を、冷たい風が過ぎた。
鳩尾を吹き抜けた表現。体の中心に力が入って、すぐに脱力させたジェスチャー。私が考えもしなかった事柄。
『ねぇ名無しちゃん、君は自分の世界に帰りたいと
いつかの日、ガイン先生に問われた声を思い出す。
あの日の私は、自分に何もないと知っていた。
でも、もしも、今の私が問われたら。
私は何と思うのか。
あぁ、やめて、やめて、やめようポルカ。
私達は、どうしてこの世界に呼ばれたの。
問いばかりが混ざって煮詰まり、泥になる。私の体を重くする。窒息させようと、喉の奥に溜まっている。
動けない私に、ポルカは目を細めてくれる。目尻を下げた柔らかな表情だ。
――時間がない。次にまた、会えたら
手を振りかけたポルカの前に、幹の手が叩き落とされる。
私と彼を分断した魔生物。その肩に乗る少女、ペディリの瞳は輝いていた。
「遅いですポルカ! なんでライラと向き合ってるだけなんですか!」
頬を膨らませたペディリは年相応に見える。ポルカは魔生物の幹に器用に足をかけ、ペディリの元まで登っていた。
吹いた風でフードが落ちる。ポルカの顔が鮮明になる。
日を浴びた少年の瞳が、微かな紫色に瞬いた。
「はいそこまで、帰る時間だよ我らが
私の体に今日一番の鳥肌が立った瞬間、首根っこを掴まれる。
背後から感じた熱気に目を向ければ、紫髪の魔族が口元に弧を描いていた。
私の担任――ガイン先生は、片手を口の前で広げ、ふっと軽い息を吐く。
たったそれだけの動作で、目の前に広がったのは赤と青の業火の海だ。
「じゃあね、エデンの飼い犬達。第二階層までは好きにするといいよ。どうせ直してしまうんだから」
「待ちなさッ」
ペディリの言葉を遮って、氷の柱が魔生物に突き刺さる。背後から現れた三本の氷塊は鋭く、幹を砕いて魔生物を穿った。
「ヨドは待機としたはずなのに、困るだろう、ユニ」
【" 秘密主義者に文句言われても響かないよ "】
「君に響く言葉があるなら教えて欲しいものだ」
ユニの隣に立っているバルバノット先生。彼は軽く肩を竦め、ユニの両足には氷の鎖が巻きついていた。
青みがかった白い瞳と、視線が交差する。
暴れても無意味。帰るしか道はない。
私は顎を引いてマスクに触れ、ガイン先生に襟を引かれる。後ろへ歩けと示される。
「さてさて帰るよ名無しちゃん。安全地帯に戻るんだ。今の君にここは
笑うガイン先生を拒否などできない。私は彼の後について歩くしかない。
喚くペディリを振り返らず、その隣にいるであろうポルカも、見られないまま。
火炎の教師は、私を陣に押し込んだ。
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