糸口と振動


 〈エーラはまだ生まれないのね〉


 先導者パラスに夜という概念はないのだろうか。


 月明かりしかない深夜、瞼を透かしたライラの炎で意識が浮上する。目を開けると紫の火文字が浮いており、私の顔に若干の熱を伝えていた。


 ウェストポーチから出たライラは欠伸でもするような揺らめきを見せる。私は一度息を吐いてから上体を起こし、肩にかかった髪を後ろへ払った。


 〈エーラにも早く生まれて欲しいわ ねぇ 私のゲネシス〉


 火が私の意識を起こしにかかる。まだ眠気を残していた頭は紫の輝きに刺激され、視界もクリアにさせられた。目の奥への急な光は痛いけど。


 私は指先に集中し、紫の熱を灯した。


 〈まだ時間かかると思う〉


 〈どうしてかしら エーラはもうすぐだって思ってたのよ? ゲネシスに何かあったの?〉


 猛火の魔人が私をぐるりと囲い込む。前後左右が紫の壁に包まれた私は流石に汗を浮かべ、口を隠しながら深呼吸に努めた。


 その間も、ライラの文字は止まらない。


 〈早くきょうだいで遊びたいのに どうしてエーラは生まれないの? 卵の中はつまらないの エーラだって早く外に出たいはずなのに〉


 〈タイミングがあるよ〉


 〈そうだけど そうではないわ 私達は互いが生まれれば早く出たくて堪らなくなるもの 置いていかれたくないの 遅れたくないの だからエーラだって殻を破りたがってるはずだわ〉


 〈でも破れない?〉


 〈ゲネシスの心がエーラに向いていないなら エーラだけで生まれるのは難しいわ〉


 私は湊の様子を思い出す。ナイフを握った彼は、ふわふわと浮かぶフィオネを凝視している日々だ。


 湊のナイフが動くことがあればメルが飛び出すのだろう。グルンが生まれるまでの期間は食事に没頭することが多くなっていたが、今の赤茶色の目は澄んでいる。眼鏡の奥から愛執と軽蔑を見つめ、膨らんだ腹部を撫でているのだから。


『綺麗だなぁ』


 隣に落ちた呟きを私は拾っていない。赤茶色の少女に目を向ければ、爪を噛むこともせず、ゆっくりとした瞬きを繰り返していたのだから。


 私はあの時、メルがどこから「綺麗」を汲み取ったのか分かっていない。


 確かにフィオネは綺麗だ。可憐で清らか、純粋で無垢。誰も彼もを魅了する妖精であり、口を開けば愛を吐く。


 湊を綺麗としたのは何故なのか。彼は常に全身に包帯やガーゼをつけた、傷だらけの献身少年。そこにメルは何を見て、フィオネと手を繋ぐことを許しているのか。


『……いいなぁ』


 赤茶の少女が続けた言葉。私はそれを殴ることができないまま、メルの指に触れた。骨と皮だけの手。餓鬼の如く膨らんだ腹。そんな少女は私を見下ろすと、目元をゆるりと細めていた。


『ご飯食べよう、イグニ』


 私の指を掌全体で包んだメル。彼女に手を引かれた私は、その言葉を罰するべきかも分からなかったのだ。


 先導者パラスが生まれるようになってから、生まれるような言葉を各守護者ゲネシスが浴びるようになってから、見えていない何かが綻んでいる気がする。知らない間に解けて、絡まって、最後には訳の分からない事になってしまうのではないかと。


 〈私のゲネシス〉


 紫の業火が私の意識を戻させる。目の前で揺れる魔人は、月光の中で火を綴った。


 〈きっともう気づかれているわ だから早くしたいの でも きっとダメね だから守って 私を きょうだいを 必ず守ってね かわいい子〉


 目を数回往復させて首を傾ける。前後の文脈から急に脱線したライラは何を伝えたいのか。私が問いかけようと指を持ち上げると、魔人は勝手に進めてしまった。


 〈いやだわ いやだ この状態で気づかれてる時が一番落ち着けないの アイツら鼻がよすぎるのよ いやだわ いや〉


 〈アイツらって誰〉


 ライラが何を書いているのか分からない。私が綴っている火の文字はライラに比べれば弱々しく、猛火にばくりと呑まれてしまった。


 〈アイツらはアイツらよ 私達のことが嫌いなの こっちも相手したくないんだけど つかれるし 今の状態だと楽しくないし〉


 〈分からないよ ライラ〉


 〈もうすぐ分かるわ 私のゲネシス〉


 紫炎が私の瞼を撫でる。反射的に目を閉じた後には、魔人は姿を消していた。


 人を勝手に起こして、勝手に分からないことを綴って、勝手にウェストポーチに帰るのだから。


 意味が分からない。


 私はベッドに倒れ込み、枕の位置を整えて息を吐く。


 アイツらって、誰だよ。


 先導者パラスはこちらの意思を無視したまま、自分の思考だけを優先しようとして。こちらが意味を理解しないまま押し付けてくるのだ。訳が分からない。


 ねぇライラ、覚えてるの。貴方は私に意味をくれると約束してくれたんだよ。


 貴方が成鳥になった時、貴方が先導者パラスとして完成した時、私は――。


 ざわりと立った鳥肌に奥歯を噛んで、見ないふりをする。


 これはきっと考え過ぎだから。間違っている思考だから。


 これは間違い、間違い、間違いだよ。


 閉じた瞼の裏に浮かんだのは、ノアとユニの文字だった。


 ***


 翌朝、うるさくて堪らない図書室に私は足を運んでいた。今日も本が元気に飛び回って自分の内容を宣伝している。あっちでギャアギャア、こっちでギャアギャア。異形頭の司書さん達が網を持って走り回る姿は健気なものだ。飛ぶ本におちょくられている気がする。全て燃やしてもいいですか。


 蔵書を叩き落としたい衝動に駆られる私は深呼吸を繰り返し、本と棚の森の奥で、ユニと会っていた。


 〈わざわざイグニがここに足を運ぶとは 正直思ってなかった どうしたの〉


 〈木を隠すなら森の中 文字と声に溢れたここなら 先生達もすぐには来ないかなって〉


 〈寮で話さないってことは ここで確認したいこともあるってことでいい?〉


 ユニの水に首を縦に振る。私の背後では、こちらが求めている情報を知っていると示すように、一冊の本が飛んできた。


「歴史学入門書! 第三章 パンデモニウム創立の歴史! 未来創造学園都市を創ったのは先導者パラスであり、それまでパンデモニウムという国は混沌とした二層造りの場所であった。先導者パラスは混沌を整備し、パンデモニウムを魔族の国へと発展させ――!!」


 いつか聞いた言葉にモーニングスターを叩き込む。振り向きざまに殴打した本は床に激突したが、傷の一つもつけることはできなかった。


 飛ぶのを止めた本を手に取り、私は目次に目を通す。そこには〈エデン〉の文字があり、ページを開いたままユニに見せた。ユニは本を受け取ると、ページをめくりながら文字を綴る。器用だな。


 〈これは俺も読んだ エデンはパンデモニウムよりも大きな国で 聖なる者が住んでる場所だ〉


 ユニが開いたページには文字がびっしりと詰まっている。本は開かれたことが嬉しそうに表紙を揺らしていたので、火傷少年の指には力が入っていた。


 〈エデンは パンデモニウムに住む魔族を虐げてきた 危険だ 低俗だ 害がある 小さな国だったパンデモニウムはエデンに何度も攻め込まれ もう降伏するしかないって時に パラスが現れたんだ〉


 要約してくれたユニの文字を咀嚼し、私はマスクを撫でる。


 脳裏に浮かんだのは、銀のマスクをつけた同郷だ。


 私はユニとの距離を詰め、彼にだけ見える距離で、小さな文字を綴った。


 〈エデンに知り合いがいる〉


 青みがかった白い瞳が明らかに見開かれる。


 ユニの唇が開く動作をしかけたので、私は彼の口に掌を押し付けた。


 今は喋るな、何も言うな。君を罰したい気持ちを、今だけは抱かせないでくれ。


 ユニの頬に指を食い込ませる。冷たい頬は氷のようで、私の手から体温が吸われていく気がした。


 反射なのだろう。ユニは強く私の手首を掴むが、すぐに瞬きをして力を緩めた。その一瞬だけでも私の手首にはうっすらと赤い跡が残り、微かな痺れを伴っている。


 銀色の少年にとって、触れられることはご法度だったか。


 彼が生きた世界を思い、私はユニから手を離す。赤い痣を残した方の手をマスクに寄せ、人差し指を立てれば、ユニは理解した目をしてくれた。水が私の前だけで踊る。


 〈誰それ〉


 〈同郷 パンミーメの子〉


 〈どこで知ったの〉


 〈メルとフィオネと第二階層に行った時 路地裏で会った〉


 〈相手は何してた〉


 〈お忍びで観光だって パンデモニウムの魔族には知られないように あの子も意図は理解してないみたいだった〉


 思い出すのは、ポルカのジェスチャー。


 不思議そうな様子で大通りを見ていた彼は、エデンの先生とも教えてくれた。


 彼も生徒。向こうには先生がいる。パンデモニウムを危険だとした国の、先生だ。


 ユニの動きが止まり、彼の瞳は手元にある本にだけ注がれる。


 私も追加で何かを綴ることはなく、ギャアギャアと騒がしい図書室に冷や汗を浮かべるだけだった。


 白い指が本のページをめくる。それからユニは再び数秒固まり、おもむろに開いた所を見せてきた。


 私はそこに書かれた文字に目を通し、内容を要約した水に視線を向ける。


 〈エデンには アポストロって呼ばれる存在がいる 綴り方は 聖勇士〉


 寒気がした。


 冷や汗が浮かんだ。


 ポルカの姿が、浮かんで消えた。


 笑わないユニは、調べてきた事柄を教えてくれる。


 〈アポストロは全部で六人 希望 敬愛 慈善 克己 正義 不屈 その称号を受けた者が パンデモニウムを破壊する為にエデンを先導した〉


 ライラの文字が脳裏で揺れる。アイツらと綴った誰かに、厚みが生まれる。


 〈アポストロを押し返したのが フィロルド達 パラスだ だからパンデモニウムはパラスを崇拝するし エデンとアポストロを心底嫌ってる〉


 細い水はすぐに蒸発し、私は深呼吸を意識する。


 ユニから渡された本には確かに聖勇士アポストロの文字があり、六つの称号が刻まれていた。


 〈どうしてエデンも 異界の子どもを呼んでるんだ〉


 水が私に問いかける。


 私は首を横に振る。


 分からない、分からない。ここ最近は分からない事ばっかりで、嫌な方向にばかり考えが向かうんだ。


 微かに動いた本を握り締める。


 ポルカと交わしたコミュニケーションを思い出す。


 ―― お互い、世界に負けず、頑張ろう


 暑さを我慢できずに罰せられた過去を持つ少年。そこから更生して、この世界で罰する側になっていた男の子。


 ―― またね


 そんな彼と、私は、確かに同じ気持ちだったのに。


 マスクの中で私が奥歯を噛んだ時――


 ――校舎が、揺れた。


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