傷と転嫁

三人称でいきます。


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 自己献身社会シャグネスでは優しい人でいることが生きる目標とされている。


 みんなが優しい人でいれば誰も傷つかない。誰も苦しまない。平和で穏やかな世界がやってくる。自分の私腹だけを肥やそうなんて、優しくない考えを誰も持たない社会を目指して。


 自己献身社会シャグネスは優しい人を求めている。他人の痛みが分かる人。人の辛さが分かる人。そんな人間で溢れることで、世界が優しくなると当時の人々は信じたのだ。


 低い賃金、飢えた体、政治に対する恨み。それらで摩耗した心身に染みたのが、社会を変えようと立ち上がったリーダーの言葉であった。


 ――優しい人になろう。


 薄闇の中にいた者達は、リーダーの言葉に光を見た。


 痛みを知っている自分達は他人に同じ痛みを味合わせることはしない。何故ならその痛みがもたらす苦しさを知っているから。


 自分達は優しい人になれる。優しい人になろう。誰にも痛い思いをさせない、優しい人でいよう。


 ただ優しいの基準が曖昧では、きっとまたどこかで歯車が崩れてしまう。


 だから基準を作ろう。みんなで痛みを知ろう。傷を負っていよう。傷を背負った人ほど、痛みを知った人ほど、優しい人であれるから。


 それから自己献身社会シャグネスには、自分の体を傷つける薬が広がり続けている。


 発熱を促す薬。嘔吐をさせる薬。胃痛も関節痛も頭痛もなんだって。子どもの頃から服薬することで、誰もが各種の痛みを学んだ。


 自己献身社会シャグネスでは自分を傷つける道具が飛ぶように売れている。


 肌が切れるとはどんな痛みか。打ち身とはどんなものか。骨が折れるとは、爪が剥がれるとは、捻挫とは。外的要因による傷を己に与え、治療の仕方を学ぶ。そうすれば、もしも怪我をした人がいればすぐに手当てができるから。


 などと誰もが考えているが、自己献身社会シャグネスには怪我をした体調不良者しか存在しないのだ。誰かを手当てする前に自分を手当てし、自分を手当てし終わった頃には相手も自分で手当てを終えている。


 誰もが自分を傷つけて、自分を手当てし、優しくなれていると錯覚した。自分はこんなに痛い思いをしている、苦しさを知っている。痛い、痛い、痛くて痛くて堪らない。だから自分は誰にも痛い思いをさせない、優しい人なのだ。


 薄闇の時代を照らした輝かしい言葉を誰もが信じていた。強すぎる光に目が眩んでいた。


 優しい人になりましょう。優しい人であれば大丈夫。優しい人でなくてはならない。


 痛みを感じて、傷を背負って、痛くて苦しくて息苦しくて――


 ――それはいつまで続くのか。


 誰もが考えていなかった。考えないように生き続けた。そうしなければ、眩い輝きを持った言葉が、自分達を傷つける刃になっていると知ってしまうから。


 傷だらけの自分達の今が、分からなくなってしまうから。


 誰もが笑顔で傷ついた。優しい人に、優しい人に、優しい人に。


 優しさの意味など、熱に浮かされた頭では分からなかった。痛む額は物事を考える力を弱らせた。


 そんな時に生まれたのが、ペリドットである。


 優しさを追求した者達がもたらした進化。

 自分達を救う為に作り出したすがり先。


 他人のあらゆる傷を吸収し、高い治癒能力によって自己再生できるペリドット。


 彼らの力が発芽した時、初めて傷を吸われた者は混乱した。


 自分の体から傷が無くなり、目の前にいる他人が傷を負っているのだ。それは相手を傷つけたことになると冷や汗が溢れたが、次の瞬きの時にはペリドットの傷が輝いた。


 目を焼く光は、いつかのリーダーの言葉のように。


 傷ついていた者達の目を、眩ませた。


 傷付けたと思った相手は瞬く間に傷を治してしまった。なくなってしまった。自分からは痛みの熱が引いていった。


 ペリドットは「大丈夫」な者だった。傷ついても大丈夫、どんな傷も大丈夫、なぜなら自分達は治せてしまうから。


 それは、太陽よりも強く焦がれる光となる。


 終わりなき痛みと優しさに終止符をくれる、救世主になってくれる。


 自己献身社会シャグネスの者達はこぞってペリドットを祀り上げた。


 ペリドットの元へ足を運ぶのは、あらゆる傷を背負ってきた者達。片足を失った。嘔吐が止まらず喉が焼ける。背中に大きな火傷を負った。


 傷だらけになった、優しい者達。


 そんな者達から傷を吸い取るペリドット。


 ペリドットはどんな傷も肩代わりしてみせた。


 終わらない優しさを求めて傷つき続けた者達は、明確な目標を見つけてしまった。


 たくさん傷ついて、ペリドットに傷を取ってもらう。そうすれば自分は優しい人だと世界に認められるのだ。


 誰もが目標をもって傷つき始めた。終わりがあると分かった動きは自己献身社会シャグネスの空気を変えた。誰もがペリドットに優しくし、ペリドットに傷を肩代わりしてもらいたかったから。


 誰も口にはしない。誰も本音など吐き出さない。ただただ傷を貰ってくれ。この傷だらけの人生を終わらせてくれ。自分は優しい。これだけ傷ついているのだから、自分は優しい。


 ペリドットなら大丈夫。どんな傷もすぐに治るから。選ばれて生まれた彼らは誰よりも優しく、強く、崇高な存在だから。


 自分達とは違う。ペリドットは耐えられる。どんな傷にも痛みにも。耐える為に、肩代わりする為に生まれたのがペリドットなのだ。


 ペリドットの適性がある子どもを産んだ者達には国から大きな支援金が与えられた。同時に、ペリドットを教会へ養子に出すように通知書が配られた。貴重で優しいペリドットを、みんなの為に育てよう。みんなに優しくある為に。


 最上湊も教会へ養子に出されたペリドットである。彼は両親の顔を知らず、傷だらけの神父とシスターに囲まれて、幼少期からペリドットの力を使い続けた。


 彼はあらゆる痛みを知っている。ナイフで切られた痛みも、鈍器で殴られた痛みも。胃液しか吐けなくなった喉の痛みも、千切れた耳の付け根の痛みも。


 彼はあらゆる傷を治してきた。傷だらけの者に手を差し伸べて、自分の体に傷を移して。


 彼は止めどなく血を流してきた。熱に倒れた体に汗を浮かべ、鉄の香りしかしない自室の中で。力を使い続けてどうにか生きた。


 意識が朦朧としても、ペリドットの力が強い湊は生き永らえた。昨日は隣にいた同胞が、今日は隣にいなくても。明日はどのペリドットが起き上がれなくなるか分からない教会の中で。


 死なないように力を使い続けた。優しい人を認め続ける為に、生き続けた。


 それが彼の存在理由。彼が生きるのは、他人の痛みを終わらせる為。優しいと認めて、自己献身社会シャグネスの傷を背負う為。


 外から鍵のかけられた部屋の中、湊は包帯を持つことも出来ずにいた。折れたアバラが痛み、潰れた片目が感覚を麻痺させ、指先が震えてしまったから。


 ベッドに倒れて自分を癒しているだけの湊は、誰からも優しいペリドットだと崇められていた。教会の中で最も長生きで、最も多くの傷を知っている、至高の優しい存在だと。


 齢十六の少年は、小さな窓を彩る青空に目を向けた。


 澄んだ緑の瞳は、青すぎる空の中を飛ぶ鳥を追っている。


 ベッドと治療道具が置かれた無機質な部屋の中。包帯もまともに巻けず、生きる為に力を使うだけの少年だ。


 彼はどこまでも飛んでいく鳥に目を細め、起き上がれない自分を鼻で笑った。


 彼は教会から出ることを許されていない。他人の傷を治して、優しいと認めることだけするようにと教えられて生きてきたのだから。


 自分は優しい。自分は誰よりも優しい。崇め、頼られるペリドット。


 そんな自分は、どうして空を見ているのか。小さな窓の外に広がっている青空に、そこを飛ぶ鳥に、何を思っているのか。


 あの鳥は傷を知っているだろうか。肌がただれた痛みを、歯が折れた痛みを、足首が反対を向いた痛みを。


 きっとあの鳥は知らないのだ。綺麗な羽根を揃えて、大きく翼を広げて飛んでいるのだから。


 湊が全身の傷を治し終わる頃、空は青から橙へ色を変え、紫を交えて、藍色に溶けていた。


「おめでとうございます。貴方は未来創造学園都市・パンデモニウムの第十三期生に選ばれました。私は貴方のクラス担任を務めます。モズ・ガシャと申します」


 薄暗い部屋の中、扉ではない場所が開いて現れた者。黒い上着から包帯の端をひらめかせ、宙に浮いた異形。包帯で体を巻き尽くした存在は、ベッドに倒れている湊に深く深く頭を下げた。


 湊の緑眼はモズを見つめる。相手が異形だろうと人間だろうと関係ない。目の前にいる存在が傷ついているか否か。湊が他人を判断する基準は傷の重症度だ。


「怪我してるの? 君はどれくらい傷を負ったの? ここにいるってことは神父様が通したってことだよね。大丈夫、俺が全部治して、許すよ」


 体を起こした湊は立ち上がり、モズに向かって手を伸ばす。無警戒に、無垢なほどに。


 包帯をきっちり巻いたモズの手は湊の手を取り、優しく暗闇へ引きずり込んだ。


「優しい優しいペリドット。その優しさを、我が世界にも広げて欲しいさね」


 微睡みに倒れた湊が目覚めると、そこは誰も傷ついていない世界だった。


 誰も包帯を巻かず、ガーゼを貼らず、健康的に歩いている。


 そんな世界を見たことなかった湊は、愕然とした。


 誰も傷ついていないなど、優しさを求めておらず、他人の痛みを分からない者だらけということだから。


 そんな世界が、湊は許せなかった。


 痛みを知らなければ優しくなれない。他人を思いやれない。世界に優しくない空気が蔓延してしまう。


 だから湊はナイフを握った。


 軽蔑の教室にて、クラスメイト達に切っ先を向けて。


 湊にとって異形も人外も人間も関係ない。怪我をしているか否か。優しくあろうとしているかどうか。それだけが重要だ。


 クラスメイトにとって、突然自分達を切り付け、穏やかな目で傷を治す湊の行動は理解できないものだった。


 傷付けて治される。痛みに驚く自分に対し、傷つけた相手は触れてくるのだ。


 傷つけられた場合、治るまでに時間がかかる。体だけでなく、心も治ろうとしているから。


 しかし湊はその時間を許さない。焼けるような痛みを与え、理解する前に治し、混乱している間に再び傷つけるのだ。


「これは、優しさの教育だよ」


 湊は鋭くナイフを向け、クラスメイトも対抗しようと湊を傷つけた。自分達は傷つけられるのが嫌だから。しかし湊にその思考は伝わらない。


「ありがとう、俺に痛みをくれて」


 痛みの中に優しさを見てきた少年にとって、自分に傷が増えることは喜ばしいことだ。


 傷つけられるという行為は経験が無かったが、それは相手がまだ優しさを学んでいないから。仕方がない。湊はペリドット。これから彼が痛みと優しさを教えればいいのだ。今までの自分がしてきたように。


「いい空気になってきたさね」


 モズは教室を見渡して体を揺らす。湊以外の十一人が、徐々に視線の色を変えていると知ったから。


 クラスメイト達は後ずさる。自分達を傷つける存在は、傷つけ返せば笑っているから。


 彼らが感じたのは、軽蔑を越えて、薄ら寒い恐怖であった。


 気づけば湊は守護者ゲネシスになっていた。


 軽蔑のエーラを抱えて、傷ついてない五人の守護者ゲネシスと共に並んでいた。


 顔に火傷痕を残したユニ。

 栄養の足りていない体で歩くメル。

 ツギハギだらけのノア。


 湊は守護者ゲネシス達の傷を見た。何十何百という傷を見てきた少年は、守護者ゲネシス達が傷だらけだと知ったから。


「その火傷、俺なら治して許せるよ」


【" 何言ってんの気持ち悪い "】


 守護者ゲネシスの寮に引っ越しをした日、湊はユニに許しを断られた。他者を圧する声は湊の内臓に痛みを与え、その間に銀髪は去ってしまったのだ。


 息を吐いた湊は、噂の"暴君"と対面する。


 モーニングスターで他人を殴り続ける少女、イグニ。


 湊はイグニの行為が優しさとかけ離れていると思っていた。だから教育しなければとナイフを握ったのに。


 イグニの目は違った。


 湊を殴る瞬間、モーニングスターを叩き下ろすその時、少女の瞳は限界まで歪んでいたから。


 少年は、少女の背中にも傷があると嗅ぎ取った。


 傷だらけが集められた寮の中、湊はナイフを回す。


 守護者ゲネシス達を許せるのは自分だけだと思いを馳せながら。


 その中でも、異質な少女が一人いる。


「湊のその傷は色んな人の怪我を背負ってるってこと? 献身ってホントに素敵、好きだわ!」


 初めての顔合わせの際、湊を褒め讃えた妖精、フィオネ。


「ありがとう湊! 湊の手って包帯がいっぱいで、それがとっても綺麗だわ! 好き! 握り方も優しくて好きだし、ちょっと指先が冷えてるところも可愛くて好きって思っちゃうの!」


 彼女は軽々しく好きを吐く。軽くて軽くて掴めやしない。それを湊は感じ取り、少女の中身も空っぽであると気づいていた。


「あぁ……うん、ありがとう」


 握った手に温度があるのに、浮かぶ少女は何もない。傷一つない綺麗な体でふわりと舞い、高く高く昇ろうとして。


「素敵、素敵でしょ? 私は飛べるの、高く高く、飛べそうなの。見ててイグニ、湊、私、パンデモニウムなら飛べそうだから。ノア、私の羽根はきっと、翼になれるわ」


 湊はフィオネの手を握る。浮く時間が伸びたことを喜び、飛べる自分を見て欲しいと笑う妖精を緑眼に映しながら。


 重ねたのは、いつかの部屋から見上げた青。自由に空で羽ばたく無傷の鳥。


 少女の脹脛にも純白の羽根がある。彼女を空へ飛び立たせる。


 その美しい白を切れば、フィオネは飛べなくなるのだろうか。


 地に落ちて、傷を知って、空っぽの中を満たす痛みを与えられるだろうか。


 痛みを知らない少女を湊は軽蔑しない。彼の緑眼は妖精を見透かしているから。彼女が吐き出す好意が、少女も気付かぬ痛みを伴っていると、知っているから。


 その痛みは、いったい誰を傷つけているのか。


 湊は今日もナイフを握る。先導者パラス達が生まれる中、飛び立とうとする妖精を掴まえて。


「湊、見て見て、リベールが褒めてくれたの。私、もっと飛ぶ時間が伸びたのよ」


「そうだね」


 どうしてそんなに嬉しそうに笑うのか、湊には理解できない。フィオネの言動を理解できたことなど一度もない。


「……フィオネ」


「なぁに? 湊」


「君はどこまで飛ぶんだい」


「どこまでも! それが私だもの!」


「そうか」


「湊は今日も怪我をしたの? 怪我した人を治したの? 人の痛みを貰えるって素敵ね! 好きよ!」


 そんな彼女は好きを吐く。甘く空虚な言葉を謳う。


 その言葉も声も、体も笑顔も。


 羽根を切ってしまえば、変わるだろうか。


 緑眼を柔らかく細めた湊は、今日も妖精に刃を向けることができなかった。

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